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2020年8月12日 (水)

車お宝話(527)自動車メーカーになった男 20話

トミーカイラZZ | Tommy kaira ZZ

CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第20回

長年抱き続けた富田の夢がついに実現する日がやってきた。トミーカイラZZ、正式デビューである。大勢の国内外プレスを招く発表会が企画された。日本オリジナルのリアルスポーツカーの誕生を当時のクルマ好きはどう受け止めたのだろう。一方、舞台裏では市販に向けて最後の大きな難関が待ち構えていた。生産場所をどうするか。けれども富田は随分前からそれを解決するアイデアを温めていたのだった。

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昔から付き合いのあったアリスの谷村新司の紹介で、一世一代の発表会は東京プリンスホテルのマグノリアホールで開催することとなった。記者発表会と懇親パーティの2部構成だった。富田の親友で歌手のばんばひろふみが司会を担当している。

スタジオ撮影を終えたばかりの完成車とベアシャシーの2台が展示され、その前に用意された150席あまりのスペースは、発表会の始まる前にはほとんど満席となっていた。国産メーカーが開催する発表会と遜色のない盛大さだった。

午後2時。ついに富田とトミタ夢工場、そして生まれたばかりのトミーカイラZZの行く末を定める記者発表会が始まった。まずは解良が開発責任者として車両のコンセプトやアルミシャシーの技術的解説を行なう。続けて富田が生産台数や価格などマーケティング面の説明をした。記者からはいくつかの質問が出る。この時点で生産拠点は明確にされず、国内か海外か、運輸省との協議の進展次第とされていた。

車両本体価格は498万円で、1週間後の8月1日からオーダーの受付が始まり、台数は未定ながらも限定生産となることがこのとき発表されている。

記者発表会が滞りなく終わると、3時からは関係者を集めての懇親パーティとなった。レース関係者をはじめ富田の長年来の友人たちも多数かけつけている。なかでも富田が喜んだのは、前北米日産社長で当時カルソニック社長だった大野陽男(故人)がわざわざ駆けつけてくれたことだった。昔からの顔なじみといえばそれまでだが、富田は大きな会社の組織人からも何かと可愛がられる男でもあった。

1部2部を通して、富田はオリジナルスポーツカーの未来に確かな手応えを感じ取っていた。

鳴り止まぬ電話

運命の8月1日がやってきた。トミーカイラZZの予約受け付けの開始日だ。富田は期待と不安の入り交じった複雑な気持ちでその日の朝を迎えていた。

はたしてオフィスの電話は朝から鳴りっぱなしだった。それなりの反応を期待していたとはいえ、ひっきりなしに鳴り響く全国からの問合せの電話に、富田はもちろんスタッフも朝から一日中振り回された。初日に購入の意思を示したクルマ好きはなんと300人近くに及んだという。富田の想像をはるかに越えた、嬉しい誤算だった。

その後もZZフィーバーは続く。1カ月で430件の正式オーダーを獲得し、富田はそこで一旦、受け付けを終えている。実際には500件以上の購入希望者がいたのだ。おそらく年産150台程度が限界で、初年度はスロースタートとなり、いろんな状況変化を踏まえて向こう3年分の受注が精一杯、というのが430台で予約を打ち切った根拠だった。

この1カ月の間、富田は慌てて専用の注文書を造り、オーダー希望者へ送付した。バブル経済が崩壊した後だったというのに予想外に大量のオーダーである。「オリジナルスポーツカーを造る!」という、無謀と言うべき富田の決断を大いに勇気づけたのだが、それだけ造るとなれば当然、資金も潤沢に準備しなければならなかった。生産場所の問題も依然、解決されてはいなかった。

資金については予約者から手付け金を受け取る方法が手っ取り早かったのだが、ZZのデリバリーは早くて2年後、遅ければ5年近く先になってしまう。その間、トミタ夢工場はもちろん社会にも何が起きるか分からない(実際、起きたのだが)。そこで内金や予約金の類は一切受け取らず、生産のための資金を自ら調達することにした。幸いにも、日本興業銀行の京都支店長が430枚の申込書を見て、快く融資に応じている。

富田には後悔があった。それは500万円を切った値付けだ。富田は高く売らなければ後々ブランド力が付いてこないと考えていた。要するにもっと高く売りたかったのだ。けれどもトミタ夢工場の営業スタッフからは「高いと売れない」、「そこまでの知名度はない」と押し切られてしまう。結局、スーパーの値付けのような498万円になってしまったのだった。

トミーカイラUK設立。生産は英国で

長年、チューニングカーで運輸省と付き合ってきた富田には、役所の仕事に対する不信が根強くあった。そのため日本での生産には最初から否定的だったのだ。認可を得るのに時間と労力、金がいったいどれだけ必要とされるか。オリジナルカーで“型式認定”を受ける、ともなれば、その面倒や予算はコンプリートカー製作の比ではなかった。愛くるしいデザインやキャブレター付きエンジンだって日本の規制に合わせて変更を余儀なくされる怖れがあった。ZZを日本で造って日本で売るためにZZらしさを失う可能性すらあったのだ。

そんなことに莫大な金と時間を使うくらいなら、車両の開発に注ぎ込んだほうがまし。そう考えた富田には秘策があった。それは少量スポーツカー生産の本場・英国で生産し日本へ輸出するという方法だ。日本での許認可の可能性を探りつつも、並行して英国での生産を検討していた富田は、430台という望外のオーダーを前についに決断する。

96年、トミーカイラUK設立。英国では中小企業の育成という観点から様々な規制が緩やかになっていた。特に年産500台以下の自動車生産には寛容で、バックヤードビルダーに代表される様々な少量生産メーカーが英国には昔から存在した。

もうひとつ、英国での生産には利点があった。それはスポーツカー発祥の地であり、モータースポーツ人気の非常に高いというお国柄ゆえ、大小さまざまなレーシングカーコンストラクターが豊富に存在していることだ。つまりスポーツカーをイチから組み立てるために、これほど理想的な場所は他になかった。

なかでも富田が英国子会社設立に選んだノーフォーク州にはスポーツカー&レーシングカー製作の名門ロータス社があり、それを支えるサプライヤーが特に充実する地域でもあった。富田の目にそこはもう宝の山としか映らなかった。

英国でクルマを組み立てること自体は問題なさそうだ。残る課題はむしろ、口うるさい日本のユーザーを満足させるだけの“ジャパン・クオリティ”をどう担保するかにあった。

それを解決すべく富田はここでもまた長年の友人、レース界の著名人を英国子会社の責任者に担ぎ出すことに成功する。

こだわりの生産方式

新たな登場人物の名前は鮒子田寛。日本人レーサーの草分け的存在で、海外挑戦のパイオニアというべき人物である。

二十歳でトヨタワークス入り。2000GTや7で数々の国内レースを制したのち、単身アメリカへ渡る。日本人として初めてF1選手権にエントリーし、生沢徹とともに日本人初のル・マン24時間参戦という快挙も成し遂げた。現役引退後は林みのる率いる童夢に入社。ル・マン参戦で童夢と一心同体だったトムスに転じると、英国に渡りノーフォークに設立されたトムスGBでトヨタの海外レース活動をサポートする側に立っていたのだった。富田はその実績と人脈に目を付けた。

富田の判断に狂いはなかった。クルマ造りに必要なネットワークがことさら改めて探す必要もないほどに鮒子田にはあった。サプライヤーはもちろん、生産管理者を筆頭に組立工に至るまで必要な人材もあっという間に揃ってしまった。ジャパン・クオリティを共に実現すべく、解良もまた英国に渡って鮒子田の家に居候し、初期の生産立ち上げを見守っている。

英国でZZを生産するにあたり富田が重視していたのは、「10年以上安心して乗れるクルマにすること」と「大メーカーに匹敵するクオリティを備えること」だった。そのためにパワートレーンやステアリング、ブレーキ、重要な保安部品はメーカー製を活用し、それ以外のパーツ生産もまた近在のサプライヤーに依頼することにした。たとえば最も重要なパーツのひとつであるアルミモノコックシャシーは長年にわたりロータス社のシャシーを生産した名門“アーチ・モータース”に依頼している。

本格的な生産を目指して、生産現場での試行錯誤が始まった。富田の目指す“ジャパン・クオリティ”の達成を日本人と英国人のスタッフが一丸となって目指していた。

そんなとき、ZZの行く末を左右しかねない大事件が勃発する。

【次回予告】

トミーカイラUKの設立で430台もの受注にふさわしい生産体制を整えることができた富田とトミタ夢工場だったが、またしても行く手に立ちふさがったのは“役所”であった。しかも、その役所の朝令暮改の判断がトミーカイラZZの運命を180度変えてしまうことになる。富田の運命の歯車がこの頃から徐々に狂い始めようとしていた。

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