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2020年4月

2020年4月28日 (火)

車お宝話(524)自動車メーカーになった男 17話

CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第17回

バブル崩壊という会社存続の危機=ピンチをチャンスと捉えてオリジナルスポーツカーの開発が始まった。亀岡工場で開発の指揮を取ったのは70年代の国内レース界にその名を轟かせたエンジニアの解良喜久雄(かいら・きくお)である。解良には既に頭のなかで暖め続けてきたオリジナルスポーツカーのアイデアがあった。

社長、100万円ください!

92年1月の役員会で正式にオリジナルスポーツカーの開発が決まった。開発の陣頭指揮はもちろん解良喜久雄(かいら・きくお)が取ることになった。

解良が開発費用として富田に求めたのはわずかに100万円だったという。解良というエンジニアの考え方がこの金額に現れている。もちろんバブル経済の崩壊で会社が厳しい局面を迎えていたこともあった。けれどもそれ以上に解良は安く造ることにこだわっていたのだった。

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17 Photos

ギャラリー:【連載】自動車メーカーになった男

これは、ひとりのクルマ好きが23歳でカーショップをたちあげ、スーパーカーブームやチューンドカーブームのハシリを造りながら、49歳でついにオリジナルスポーツカーの企画・生産・市販に至るという、究極の“カーガイ・ストーリー”である。

当時のトミーカイラ製チューニングカーは、フェアレディZスカイラインGT-Rといった高性能マシンベースに開発が続けられており、勢い国内外のスポーツカーブランドをも巻き込んでの馬力競争にさらされていた。この路線で勝負を続けることは危うい。そう感じていた解良はトミーカイラ製チューニングカーとは全くベクトルの違うスポーツカーを頭に描いていたのだ。

それは軽くてシンプルで乗っているだけで楽しくなるクルマ、である。しかもそれなりの数を売らなければ意味がないとも思っていた。そのためにはできるだけ安く作って安く売らなければならない。

金のかかるトップカテゴリーのF1マシンを造ったレースエンジニアの、それは意地でもあった。

試作車を初めてみた富田の印象は「低くて、幅が広くて頼もしいやつ」だった。このカウルのないフォーミュラーカーのような姿のままで施設内を試乗し、そのフィーリングを確かめた。

もうひとりのカーガイ  

小さい頃から乗り物とモノ造りに興味のあった解良は、中学時代にバイク屋へ入り浸るようになり、そこで整備や修理の方法を見よう見まねで学んだ。バイクを乗り出す頃にはもう何でも自分でできるようになっていた。二輪は危ないからと父親に諭されて四輪へ転向しても、“自分で何でもとことんやらなければ気がすまない”という性格は少しも変わることがなかった。

サーキットへは溶接道具を持ち込んで走っていたというから、まるでひと昔前の自動車メーカー開発部隊のようだ。走っては考え、考えては工夫を凝らし、その場で切ったり貼ったりした。彼のマシンだけはその日のうちに速くなることが多かった。

金や道具が無いからできない。そんな言い訳が大嫌いだった。無いなりに工夫して勝負する。そうやって生きてきた。失敗を怖れることなく自ら考え抜いたアイデアを実行に移す。その繰り返しが糧となる。誰かに教わったり枠にはめられたりすることが未だに大嫌いだという解良はその代わり、自分で答を探し出すことにはいつも夢中になれたのだった。

70年代にF1やF2、GCマシンを造り続けた経験が、レーシングカーとは全く違うスポーツカーのアイデアを生む。開発がスタートしたときには既に解良の頭のなかには構想ができあがっていた。

だからこそ開発費の要求はたったの100万円だった。

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ギャラリー:【連載】自動車メーカーになった男

これは、ひとりのクルマ好きが23歳でカーショップをたちあげ、スーパーカーブームやチューンドカーブームのハシリを造りながら、49歳でついにオリジナルスポーツカーの企画・生産・市販に至るという、究極の“カーガイ・ストーリー”である。

他にない楽しいクルマを

1億円のスーパーカーを少量造ることなど簡単だ。金さえあれば誰でもできる。高い素材や技術、パーツを買い集めてきて造ればいいのだから。けれどもスポーツカーを安くつくるためには頭をフルに使わなければならない。量産するともなれば尚さらだ。逆にいうと頭を使うからこそいいモノもできる。解良はそう信じていた。

それゆえオリジナルカーのシャシー製作には既製品の活用にこだわった。実際に出回っているモノを最大限に活用するのだ。大量に生産されているモノには既に証明された性能や耐久性もあった。どこでも・いつでも・誰にでも買えるモノを使うということは、製造者や販売者のみならず、最後には利用者にとっても多大なメリットになる。

プロジェクトが始まってすぐに解良はパワートレーンやサスペンション、シート、タイヤなど主だった部品を床に並べて、「完成したのも同然」と豪語した。これにはさしもの富田も苦笑するほかなかった。

そして実際、半年後にはプロトタイプシャシーができあがってきた。

プロトタイプシャシー完成す

アルミ押し出し材でモノコックボディを製作することは、レースでの経験もさることながら、トミーカイラ・コンプリートカー用のウィングステーなどパーツ製作からもヒントを得たものだった。当時のレースカーはカーボン時代を迎えており、アルミニウムは性能的にも重量的にも既に使えなかったが、量産性を考えた場合にロードカーにはまだまだ有効なマテリアルだった。

エンジンとミッションは日産プリメーラP11用で、SR20に京浜FCR4連キャブを装備していた。キャブ仕様を選んだのはECUを使うより安かったし、メンテナンスも容易で、チューニングもしやすかったからだ。

それにプリメーラのエンジンなら英国でも簡単に手に入った。生産組立工場があったからだ。チューニングカーの届け出などで役所の頭の硬さ(前例主義)に辟易としていた彼らは、仮に日本で生産できなかった場合に備えて海外生産のプランも既に描いていたのだった。特に車体製造の自由度が比較的大きい英国のSVA要項を満たす開発を解良は行なっていた。

いいクルマを造りたかったわけじゃない。トミーカイラでしか造れない楽しいクルマを造りたかった。

できあがったプロトタイプシャシーに初めて乗ったときの解良の感想ははたして「狙い通り」のひと言だった。

PROFILE
西川 淳
スズキ ジムニーからランボルギーニ カウンタックまで幅広く愛するモータージャーナリスト。富田氏との付き合いも長く、現在自身が京都に居を構えていることから、富田氏とは今も多くの時間を共有している。

(次回予告)
プロトタイプシャシーを徐々に煮詰めていきながらもスタイリングと生産をどうするかという次の課題が待ち受けていた。そこでもまた紆余曲折があった。またプロトタイプシャシーも完成した段階で日本のメディアにテストの機会が供されていた。早い段階でメディアに提供したことで後に思いも寄らぬ結果をもたらしたのだった。

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2020年4月 1日 (水)

車お宝話(523)自動車メーカーになった男 16話

TOMITA

Yoshikazu Tomita (No.16)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第16回

日産スカイラインに始まった国産車ベースのチューニングカー事業は順調に進みはじめた。トミタ夢工場の事業構想もますます膨らみ、富田はいよいよ念願だったオリジナルスポーツカーの開発を決意する。バブル経済はすでに崩壊していたが、富田が想像し続けた夢だけは決してはじけることはなかったのである。

トミーカイラ製チューニングカー、続々

89年4月に京都で開催されたトミーカイラ製コンプリートカーの発表会は、大覚寺という大舞台でトミーカイラという国産ブランドの存在を世に知らしめる絶好の機会となった。けれども富田は決してそれだけで満足しない。翌90年6月には早くも新型スカイライン(R32)ベースの2代目M20&30を開発し、嵐山でデビューさせている。

京都の名勝地にてお披露目。それも2年続けて。はっきり言って二匹目のどじょうである。それは富田も分かっていた。だから今回こそ主役はクルマだとばかり、白と黒の新型モデルを嵐山の緑をバックにして大胆に展示した。クルマそのもの魅力を存分に伝えるべく、プレスカンファレンスも落語会のように高座(発表者)と座敷(プレス)で行なうという非常な展開を試みた。富田は“二匹目のどじょう”の重要性も知っていたのだ。

なかでも2代目M30の開発には強いこだわりがあった。R32スカイラインをベースとした新型M30の開発がスタートした時点で、GT-R(BNR32)が復活するという情報をキャッチしていたし、それがターボエンジンの4WDであることも知っていた。けれどもGT-Rをベースとしたコンプリートカーの開発に日産からのゴーサインが出ない。そこで富田は持ち前の負けん気を発揮する。初代M30のコンセプトを引き継ぎ、GT-Rとはまるで異なる、けれども負けない高性能車を造ってやろうじゃないか……。

そうして生まれたのがFRで自然吸気3リットルエンジンを積んだ2代目M30であった。最高出力280ps&最大トルク30kgmは当時の自然吸気エンジンとしては異例のスペック(初代ホンダNSXと同じ)であり、M5を意識したというサウンドチューニングと相まって、その走りが一部のマニアを狂喜乱舞させた。

限定わずかに200台。エンジンだけじゃない。フロントフェンダーは富田のこだわりで大好きな300SL風のオーバーフェンダーが装備されていた。スポイラーやウィングのディテールにも凝っている。トミーカイラ史上、最も採算の合わなかった企画でもあった。富田のチャレンジ魂が生んだ執念の1台だと言っていい。ちなみに、このモデルの発表直後、R32GT-Rベースのコンプリートカー開発に日産からの許可が降りてきた。

橋本聖子とトミーカイラ

バブル経済崩壊の直前、もう1台のスペシャルなコンプリートカーが誕生している。M30Z、そうフェアレディZベースのトミーカイラだ。

このクルマは“日本初”の偉業を達成している。当時、メーカー製の高性能車といえば最高出力を280psに自主規制していた。NSXも、GT-RもGTOも、そしてZ32もエンジンの種類に関わらず280psだった(このことがその後の国産スポーツカーの進化に悪影響を及ぼしたと筆者は思っている)。実はトミーカイラM30Zは国産車で初めて300馬力の壁を越えたのみならず、350psで運輸省の改造申請をクリアしていたのだ。

発表後、富田のもとにある人物から連絡が入る。スピードスケートの女王で現参議院議員の橋本聖子だった。その内容は、M30Zが欲しい、オリンピックでメダルが取れたら買っていいと監督から言われた、というものだった。

92年アルベールビル冬季五輪。橋本はスピードスケート1500mで見事に銅メダルを獲得する。数日後、パリにいた橋本から富田に直接オーダーの連絡が入った。

数カ月のち、橋本はスピードスケート男子のホープ黒岩彰を伴って自ら京都までM30Zを引き取りにやってきた。黒岩もまたスカイラインベースのM30を気に入ってその場でオーダーしたという。

話題のアスリートのオーダーである。未だ知る人ぞ知るといったブランド名を全国へ広める絶好のチャンスだったが、富田はそれをしなかった。橋本や黒岩と公にしないと約束し、マスコミにも伏せて静かな納車式を行なった。

M30Zは自動車雑誌の取材で最高速度290km/hを記録している。

92年正月、役員会にて

話は少し戻って91年正月のこと。恒例の年頭役員会において重要な決断が下された。「オリジナルスポーツカーの開発」である。

突然振って湧いた話ではもちろんなかった。富田には昔からオリジナルスポーツカー開発への野望があった。アルピーヌA110を輸入したときにも、「これなら造れるかも」と分不相応にも思ったものだ。その心のうちを口に出すことなどほとんどなかったが、思いは熱く秘められていた。

初代M30が日本初の公認チューンドカーとしてデビューしたときも、あるテレビの取材で女性リポーターから将来の夢を聞かれ、富田はこう応えている。「小さくて可愛らしくて動物的な愛情を感じるクルマを造りたい」。オリジナルスポーツカーの開発は彼の想像力が培った最大の夢であり目標であった。

レースエンジニアだった解良喜久雄をトミタ夢工場に引き入れたのも実はその布石であった。

そんな富田の秘めたる思いを当時常務だった解良が汲み、仕事始めの役員会で提案した。富田もまたその熱い思いを吐き出した。決断はもちろん、「オリジナルスポーツカーを造ろう」。

チューニングカービジネスを発展させてきた一方で、富田は大メーカーに振り回される悲哀も存分に味わっていた。相手は巨大な組織であり、今は味方になってくれる人がいても将来は分からない。経営や株主が変われば方針も変わる。別の柱が必要だと思っていた。それも自らの技術力を存分にアピールできるような柱だ。その答がオリジナルスポーツカーの量産であった。

「会社が潰れるかもしれない」。富田は一瞬そう思ったという。けれどもいちど決めたことは絶対に成し遂げるのが富田の流儀だ。かくしてトミタ夢工場のオリジナルスポーツカープロジェクトは動き出す。

会社トップのジジィたちが何やら始めたぞ!

何やら社長たちがこそこそ始めた……。まもなく社員たちもそれまでとは違う空気を感じ始めていた。毎週月曜の朝に開かれていたプロジェクトの報告会兼役員会を、誰かが“今朝もジジィの会、熱心にやってはるな”などと言うようになっていた。ジジィか。それええな。富田はそう思った。

何としても50歳までにオリジナルスポーツカーを走らせたい。1945年生まれの富田はそう決めていた。あいにくバブル経済が崩壊し、景気は悪くなる一方であったが、諦めることはなかった。引き返すことなどありえなかった。

基本のコンセプトは早々に決まった。解良がレーシングカーエンジニア時代から暖めてきたアイデアである革新的な“アルミ押し出し材モノコックシャシー”を基本に、日産のパワートレーンを使った軽量コンパクトなオープン2シータースポーツカーとなった。パワートレーンの選択に関していえば、トミタ夢工場と日産の当時の深い関係から、それ以外のチョイスなどありえなかった。事実、日産からトミタ夢工場に供出されたSR20ユニットは、公言を憚るほど安価なものだった。たとえば完成エンジン代は、パーツ代のおよそ8分の1だったというから驚くほかない。

京都府亀岡市に開発拠点を置いた。クルマの運送で世話になった会社の倉庫を借りたのだ。

プロトタイプシャシーが完成したのは94年のことだった。

PROFILE
西川 淳
スズキ ジムニーからランボルギーニ カウンタックまで幅広く愛するモータージャーナリスト。富田氏との付き合いも長く、現在自身が京都に居を構えていることから、富田氏とは今も多くの時間を共有している。

(次回予告)
完成したプロトタイプシャシーをいよいよ試す日がやってきた。果たしてその完成度はいかに? プロジェクトを開発から一貫して取材していたメディアの存在が後にそのスポーツカーの評価をさらに高めることになる。さらにそのシャシーに被せるスタイリングの開発には紆余曲折があった。次号、オリジナルスポーツカー、ついに発進だ。

文・西川 淳 編集・iconic

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