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2020年2月

2020年2月26日 (水)

車お宝話(522)自動車メーカーになった男 15話







CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第15回



前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。








発表前夜に起きたアクシデント

1980年代の大手メーカーには絶対に手の出せない領域だった“チューンドカー”=クルマ好きの眼鏡に叶う性能とデザインをもつユニークな少量生産車。しかもそのクルマは大手メーカーの協力を得て、車体はもちろんパーツに至るまで供給され量産も視野に入れる。つまり巷にあふれた違法改造車とは根本的に違う存在。購入後のアフターサービスも充実させる。これなら絶対に話題になる。富田はそう確信した。




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前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。

しかも富田は「ハルトゲ・スカイライン」構想=輸出用の3リットル直6エンジン(RB30)ブロックに2リットルRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮するストレート6を積む、を上回るスペックを実現しようとした。そうして生まれたのが240psを発揮する“トミーカイラ・M30”だった。

トミーカイラブランドを広める最大のチャンス。富田は大々的な発表会を企画し多くのマスコミに招待状を送った。すると間もなく運輸省からクレームが入った。招待状の文面に間違いがあって大阪支局の担当官が激怒しているというのだ。おそらくチューンドカーのお上公認という前代未聞の出来事に運輸省にもマスコミからの取材が入ったため分かったのだろう。



実は当時の運輸省のトミーカイラM30に対する判断は“認可”ではなくあくまでも“届け出”を受理したということだった。ところが招待状には認可されたとあったのだ。富田たちには“認可”と“届け出”の違いすら分からなかった。このままではまたしてもすべては水の泡となってしまう。しかも実現の寸前で……。


富田は役所の閉まる17時が過ぎていたにも関わらず一か八かで大阪支局に駆け込んだ。守衛をくどき落とし幸いにも在局していた担当官に取り次いでもらう。自らの無知を詫び、必死に話すこと半時間。何をどう話したのか富田にはほとんど記憶がない。けれども担当官の怒りは奇跡的に和らぎ、訂正文の見本まで作ってくれた。

富田に、そしてトミーカイラM30にも、運があったというわけだった。





大きなニュースとなったM30発表会

ドイツのAMG本社を訪問してから7年が経っていた。ついに富田もアウトレヒト(AMG創業者)と同じ土俵に立つことになったのだ。

トミーカイラM30の発表会は日産アプリーテという荻窪にあった関連会社で行なわれた。そこのトップが富田と親しくしてくれていたからだった。本社への根回しも万全だった。日産の勢力圏で発表会を開催できたことが幸いし、テレビや新聞といった今までなら関心をもたないマスコミが富田のプロジェクトを好意的に報じてくれた。曰く、「改造車が市民権を得た」。運輸省と日産という大組織の“お墨付き”の効果はそれほどまでに絶大だったのだ。



クルマ専門メディアはさらに高く評価してくれた。「日本初の公認チューニングコンストラクター」というタイトルに、富田はやっとここまで来た、ひとつの夢が叶ったと素直に喜んだ。

トミーカイラM30の評判も上々だった。多くの専門メディアがテストを望んだ。当時の日産スカイラインは2リットルがメインで最上級グレードはターボ付きとはいえ190馬力だった。それにひきかえM30は自然吸気ながら3リットルエンジンが240馬力を叩き出す。パワーコントロールのしやすさ、シャシー性能の高さに熟練のレーシングドライバーも高い評価を与えている。

富田の目論みどおり、トミーカイラブランドが一躍、その名を馳せたのだった。




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ギャラリー:自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第15回

前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。



続いて開発されたシルビア、シーマ

1980年代後半。日本はバブル経済のまっただ中にあった。日産にもたっぷり余力があった。セドリック・グロリアの上をいく3ナンバー専用の高級車まで登場し、「シーマ現象」を引き起こす。高級車ブームが到来した。

日産でシーマのマーケティング担当だった人物がトミーカイラ担当を兼ねていた。自然とシーマベースのトミーカイラプロジェクトも企画され、M30Cというチューニングカーが誕生する。エンジンパワーアップ(280馬力)に専用エアロパーツ、高価な本木目ダッシュパネル(オプション)などをおごった、AMGに対抗する高額なコンプリートカーだった。

当時、日産の人気モデルだったシルビアをベースにトミーカイラM18Si、18SiRというモデルも開発した。日産のスペシャリティカーや高級車が人気だったからこそ、トミーカイラの各モデルも話題になったと言っていい。



以降、マーチやプリメーラ、フェアレディZといった他の日産車をベースにしたトミーカイラモデルも続々登場したのだった。



熱意が結ばれて実現した京都大覚寺での披露

東京で開催されたトミーカイラM30の発表会は大盛況だった。けれども富田にはやり残したことがあった。本当はトミーカイラの本拠地である京都に多くのメディアを呼びたいと思っていたのだった。



メディアが好意的に取り上げてくれさえすれば費用対効果は抜群であることを、富田はマハラジャや日産アプリーテといった過去のイベント主催で経験していた。日産アプリーテでのM30発表会は広告費換算で当時1.4億円近かったと日産関係者が教えてくれたという。

何とか京都に多くのメディアを呼べないものか。富田は考えた。わざわざ京都まで来てもらうためには今までにない趣向を凝らさなければならない。そこで思いついたのが、春の京都らしさを満喫してもらうという企画だった。

京都の春といえば桜。桜の咲き誇る有名な場所で、お茶や琴、着物、船遊び……そんなことをできる場所は大覚寺しかない。富田はそう思い込んだ。

旧嵯峨御所である。華道や茶道など文化事業ならいざ知らず、私企業のクルマを並べるイベントなどにそう易々と貸し出してもらえるような場所ではない。それでも富田は直談判に向かった。ダメ元などという軽い気持ちではない。絶対にやってもらうという覚悟で門を潜ったのだった。



多少のツテもあったので門前払いは免れた。けれども応対に出た渉外担当の僧侶は当然ながら100%断るつもりだったという。けれどもあまりに熱心に夢を語る富田にあろうことか根負けをしてしまった。どころか富田のプランである船遊びのために抜いてあった池に水まで入れてくれることになった。

M30やM30C、M18を並べた前代未聞の大覚寺イベントは、多数のメディアで賑わった。茶をたて、琴を奏でて、船を浮かべた。桜が咲き誇っていた。大盛況であった。

(次回予告)
日産スカイラインに始まった国産車ベースのチューニングカー事業は順調に成長を続けた。トミタ夢工場の事業構想もますます膨らんで、富田はいよいよオリジナルスポーツカー開発へと舵を切る。日本のバブル経済は崩壊したが富田の夢は決してはじけることはなかった。



文・西川 淳 編集・iconic







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2020年2月 3日 (月)

車お宝話(521)自動車メーカーになった男 14話

 

 

 

Yoshikazu Tomita (No.14)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第14回

前回までのあらすじ──サニーとスカイラインで日産とトミーカイラとのコラボは順調に進み始めたかのようにみえた。富田はこれきっかけにトミーカイラブランドを育て、トミタ夢工場でオリジナルカーを造るという夢を描き始めていた。人・金・モノ、すべてに圧倒的な大企業においてトップダウンの特別待遇を得た富田だったが、そこには予期せぬ落とし穴がいくつも待っていた。

幻と終わったハルトゲ・スカイライン。ヨーロピアン・コレクションではハルトゲのロゴは消えてしまった。

クルマを良くしたい思いが裏目に

輸出用の3リッター直6エンジン(RB30)ブロックに2リッターRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮する直6を積んだ「ハルトゲ・スカイラインHS30」構想を提案し始めた頃から、富田らに対する日産社内の風当たりが強くなっていた。

ある時、担当者が重い口を開く。富田たちのプランを日産の社員たちは裏で『ウルトラCプロジェクト』などと呼んでいた。奇異の目で見られているというのだ。要するに富田たちは日産自動車の玄関を間違って入り、逆向きに突っ走っていてみんな迷惑に思っているのだ、と。富田としては右も左も分からず、ただクルマを良くしたい一念で走ってきただけだったが、それは組織のなかで必ずしも機能する方法ではなかった。

組織には理解者や協力者がひとりでも多くいた方が良い。そう気づかされた富田は翌日から仕事のやり方を180度変えた。通常の手順を踏んだ。役員から呼びかけてもらうのではなく、受付カウンターに寄って面会カードを書き担当者を呼んでもらうことから始めた。そして会ったひとりひとりにチューニングカービジネスについていろんな角度から丁寧に説明した。たとえ分かってもらえなくても相手と打ち解ける努力をしたのだった。

幻となったハルトゲ・スカイライン

地味な努力で富田たちの理解者が増え始めたというのに、肝心の“ハルトゲ・スカイライン”プロジェクトの雲行きはいっそう怪しくなっていく。実はプロジェクトに対する執拗な反対工作が裏で行なわれていたのだった。

原因はトミタ夢工場のレース活動にあった。長坂尚樹選手を擁する富田の会社は85年に始まった全日本ツーリングカー選手権(JTC)にハルトゲBMWで出場し、見事シリーズチャンピオンに輝いていた。これがある人物の逆鱗に触れたのだ。実はその年のJAF主催年間表彰式において富田はその人物から「絶対にハルトゲ・スカイラインなど認めない」と宣言されていた。

富田が日産と関わるきっかけとなった、R31型スカイラインの2ドアクーペ。4ドアモデルで芳しくなかった評判を取り戻すため、試作段階から富田が携わった。

その人物とは日産社内に幅広い人脈と影響力をもっていた難波靖治ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)初代社長である。

結局、富田の“ハルトゲ・スカイライン”構想が実を結ぶことはなかった。それでも地道に造り上げた富田の社内人脈が功を奏したのか、富田の企画はスカイライン「ヨーロピアン・コレクション」として、日産本体ではなくプリンス自販とのコラボレーションという形で実現する。もっとも「ヨーロピアン・コレクション」そのものはチューニングカーではなく、単なるドレスアップカーであったが……。

さらに87年には富田の企画によく似た“スカイラインGTSニスモバージョン”も登場しているから、一連の出来事はユーザーの存在を無視した、子会社社長のメンツをかけた日産社内の単なる抗争でしかなかったのだった。

のちのトミーカイラ・M30に採用されたと思われるエンジンの写真。実際に搭載されたものかは定かではないが、すでにM30のロゴが刻まれている。

櫻井眞一郎との出会い

“ハルトゲ・スカイライン”計画が暗礁に乗り上げそうになった頃、富田はミスタースカイラインこと櫻井眞一郎とも会っている。

それは当時の副社長がセッティングした食事会だった。突然自分の縄張りに殴り込んで来た若造に当然ながら櫻井はいい印象を持っていなかった。当時の櫻井は商品企画室において車両開発を統括する部長で、富田より20歳近くも年上だった。

会食は気まずい雰囲気で進んだ。ふたりの意見はことごとく真っ向から対立する。食事が終わると二人は互いを認め合うことなく早々に席を立とうとした。

こちらはスカイラインのインテリアカット。富田はブログ内で、すでにほぼ完成したスカイライン2ドアクーペに対し、メーターパネルやシートなど、内装などにもアイディアを提供したと綴っている。

富田が櫻井に別れの挨拶がてら病み上がりだった櫻井の体調を気遣ったときだった。櫻井がそのときの病で「三途の川」を渡りかけたという話を返すと、富田もまた過去に「三途の川」を見た話で応えた。生死をさまようという非常な経験がふたりを急速に近づける。会が終わっても二人は話し続けた。櫻井が富田をホテルまでクルマで送ったのだが、すっかり打ち解けた二人はなんと朝までそのクルマのなかで話し込んだのだった。

櫻井はプリンス出身で、日産生え抜きの難波とは同い年だった。「富田さん、難波さんは頑固一徹で軍人のような人だ。いちどボクが掛け合ってみよう」とまで言ってくれた。

結局、櫻井の助太刀も空しく難波は最後まで首を縦に振ることはなかった。富田のプロジェクトは闇に葬られてしまったが、人の縁というものの素晴らしさに感動した若い富田は決意を新たにする。

マイナスをプラスに変えろ!

やはり自前のブランドを育てるほかない。トミーカイラの認知を広め、自分の好きなようにチューニングカービジネスを展開していきたい。言ってみれば原点に立ち戻った富田は“ハルトゲ・スカイライン”企画をそのまま“トミーカイラ・スカイライン”計画へと変更した。88年に日本初の市販公認チューニングカーとして発表された「トミーカイラM30」である。

富田の動きは早かった。ハルトゲが不可能ならトミーカイラブランドで計画を引き継ぎたいと日産の上層部に申し出る。ベース車両はもちろん輸出用エンジンブロックなど純正パーツの供給などを要請すると、ハルトゲプロジェクトの負い目もあったのだろう、上層部は快く引き受けた。日産としてもモデル末期の迫る7代目スカイラインが話題になればという思いがあった(M30発表の1年後にR32スカイラインがデビューする)。マイナスをプラスに変える富田お得意の戦略が功を奏したのだった。

富田は“ハルトゲ・スカイライン”計画を上回る性能を狙うことに決めた。解良喜久雄をはじめとするトミタ夢工場の技術力を信じていたし、千載一遇のチャンスをブランド飛躍の好機と捉えていたからだ。けれどもそこには越えるべき巨大な壁がもうひとつあった。その壁を越えなければ、日産の協力はありえない。

その壁とは運輸省(当時)である。自動車の改造が御法度だった時代に、自動車メーカーが造ったクルマを改造して売ることを“お上”が認めるなど誰も想像できない時代でもあった。

(次回予告)
ハルトゲ・スカイライン計画が水の泡となったことで、富田は逆にまたとないチャンスを得た。日本初の市販公認チューニングカーを造るというチャンスだった。それはまたオリジナルブランドであるトミーカイラを確立できる機会でもあった。紆余曲折を経て発表にこぎつけた事実上ブランド初の市販公認チューニングカー“トミーカイラM30”とはいったいどんなクルマだったのだろうか。

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