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2019年9月

2019年9月17日 (火)

車お宝話(514)自動車メーカーになった男 10話







 

 

 

 

 


 

 










Yoshikazu Tomita (No.10)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第10回



前回までのあらすじ──自然とモータースポーツとの縁を深めた富田だったが、自動車販売という本流は頑に守り続けていた。そんななか、身近な仲間がレーシングカーを製作し世界へ挑戦する姿を見て若きころのエンジニア魂に火がつき始める。ツルシの製品を売るだけでは飽き足らなくなってきたのだ。富田が次に目をつけたのは、AMG やハルトゲといった西ドイツチューニングカーの世界。1980年代始めのことで、それらはまだ無名の存在だった


AMGとの出会い

あるとき富田は有名モーター誌を読んでいて、ひとつの記事に惹きつけられた。それは欧州のツーリングカーレースをメルセデスベンツのサルーンをベースにしたレースカーで参戦する、西ドイツのとあるチューナーに関する記事だった。チューナーの名前はAMG。今ではダイムラー・メルセデスの傘下だが、当時はまだ独立したチューナーであり、日本ではほとんど知られていなかった。

メルセデスベンツも大好きで、富田は当時、350SLを自分なりに改造して楽しんでいた。けれども、ベンツを改造して乗るということ自体がまるで理解されず、知り合いの自動車評論家(後に超有名となる人たち)からは、「メルセデスはノーマルで乗るものだ!」、とけなされてもいた。

そんなときにAMGの記事に出会ったのだ。そこにはAMGがベンツのチューナーとして西ドイツでは有名な存在で、あまつさえツーリングカーレースに出場し大活躍しているとあり、書き手は旧知の仲である成江淳だった。富田はすぐさま成江に電話し、AMGの話をさらに詳しく聞いている。


聞けば聞くほどに「チューニングはこれからアリだ」、と自信を深めた富田は早速、次のアクションをおこす。AMGの創設者であるハンス・ヴェルナー・アウトレヒトに会うために西ドイツ行きを決心したのだった。




写真右手前から富田、金古、ペリーニ。写真左がアウトレヒト。地味ではあったが、頑固な工場の親父のようで、職人気質な雰囲気を感じたという。




いざ、西ドイツへ!

富田は、友人で童夢USAの社長でもあった金古(真彦氏)に連絡を取り、AMGとのコンタクトを依頼。金古は欧州で著名なイタリア人ジャーナリストのジャンカルロ・ペッリーニに連絡し取り次ぎを頼んでいる。

富田はちょうど2カ月後に童夢を応援するためにフランスはル・マンに行くことになっていた。その帰りに西ドイツのAMGを訪問できるよう、ペッリーニがアポイントを取り次ぐ。




当時の富田は36歳。商談後には新車の280SEをレンタルして、川下りなどをして西ドイツを楽しんだという




金古と連れ立ってフランクフルト空港に降りてみれば、ひげ面で陽気なペッリーニが見慣れぬアウディと共に待ってくれていた。それは先日(2019年8月27日)亡くなったフェルディナント・カール・ピエヒによって開発され衝撃のデビューを飾ったばかりのアウディ・クワトロで、ペッリーニはロードインプレッションを取っていたのだ。そのリアシートに収まった富田は、ペッリーニがまるでラリードライバーのようにドイツの道をかっ飛ばしたことを覚えている。81年のことだった。

AMGの本拠地はすでにアファルターバッハへと移っていた。けれども、田舎町であることに変わりはなく、AMGの工場もまた簡素にして質素なものだった。後に富田は、「もしあの時のAMGが立派な会社と工場でボクたちを迎えていたとしたら、チューニングカービジネスを日本で興そうという気にはならなかったかも知れない」、と本音を漏らしている。



アルピーヌを初めて見て、「これならできる!」と若い富田が不遜にも思ったように、この時もまた、AMGの質素で実直な佇まいをみて、自分でもできる!と思えたというわけだった。



アウトレヒトと直談判

AMGとは、創業者であるアウトレヒトのAとメルヒャーのM、そしてアウトレヒトの故郷であるグロースアスパハのG、という三つの頭文字を併せて造られたものだ。1981年のこのとき、メルヒャーは経営から退いており、アウトレヒトが陣頭指揮を取っていた。



富田がやってきたアファルターバッハは事業拡大に伴って創業の地ブルクシュテッテンから移転した場所であり、メルセデス傘下となったのちも引き続きこの地にメルセデスAMGの本社と工場は存在している。



富田がやってきた当時のAMGは、決して小さくはないけれどもプレハブ倉庫のような工場が並んでいるだけで、町工場の域を出るものではなかった。前述したように、富田が自信を持つくらい、それは質素で簡素なものだった。それでも西ドイツとアラブの客がAMGを求めてアファルターバッハまでやってくるのだという。富田は閃いた。いずれ日本人もやってくるだろう、と。



アウトレヒトはいかにも頑固そうな町工場のオヤジ然とした職人で、富田たちを快く迎えてくれたという。工場をひとしきり案内された富田は、すぐさまAMGの日本代理店契約を獲得すべくアウトレヒトとの契約交渉に挑んだ。




広告掲載後、取材は殺到したがサンプルカーは1台のみ。過密スケジュールを何とかやりくりして切り抜けた。富田は当時を振り返って、それまでで一番神経を使った経験だとしている


AMG日本総代理店に

交渉は、富田が日本語で話し、それを金古が英語に換えて、イタリア人のペッリーニがドイツ語に訳すという、のんびりとしたものだった。交渉はトントン拍子に進んで、正式な契約を後日、富田がスーパーバイザーを努める高島屋を通じて行なうことで結論をみた。このとき富田はデモカーとして2台のコンプリートカー(SECとSL)と数台分のパーツをサンプル購入し、日本へと輸出している。



日本にデモカーが届くと、富田は早速、専門誌にプレスリリースを送り、雑誌広告にはAMGロゴ入りの宣伝を掲載した。




サンプルカー1台で取材を切り抜けた経験は、のちのトミーカイラM30の発表の際にも役立った


知名度ゼロ。メルセデスベンツを改造するバカがどこにいる?と思われていた時代であった。ところが、富田の予想に反して、専門誌からすぐに取材依頼が殺到した。富田曰く、「ただカッコウいいだけのスーパーカーにみんな飽きてたんと違うかなぁ。もっと現実的で実用性もあって、ちゃんと性能の出る高級車を望んでいたんだと思う」。



そう、誰もが“スーパーカーの次”を探していたのだ。富田の挑戦は吉と出た。同時に富田には別の野望も芽生えている。日本車をベースとした本格的なチューニングカービジネスだ。車検を通るコンプリートカーというアイデアはまだまだ珍しかった。



しかし、日本車がドイツ車のようになるにはまだ早い。それまでドイツのチューニングカービジネスを学ぼうと、富田はBMWを使ったブランド、ハルトゲに食指を伸ばす。





次回予告

トミタオートはついにチューニングカービジネスに乗り出した。AMGやハルトゲ(次回紹介)といった今となっては超有名なブランドを日本に導いた富田の次なる野望は、日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ることだった。“改造車”=暴走族御用達というイメージだった時代に、それは一見、無謀な挑戦にも見えたのだが……。





文・西川 淳 編集・iconic

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