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2019年8月

2019年8月26日 (月)

車お宝話(513)自動車メーカーになった男 9話

Japan

 

 

 

 

 




 

 














Yoshikazu Tomita (No.9)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第9回



前回までのあらすじ──富田義一がクルマやバイクに目覚めたのは小学生のころの転校がキッカケだった。そこで富田は日本のレース業界でその後、大いに名を馳せることになる、とある人物と出会う。成長するにつれさらに広がってゆく京都のクルマ好き人脈。トミタオートのビジネスが軌道に乗り始めると、その人脈は日本のレース界にまで広がった。









その時々を一生懸命にやることがモットーだという富田。モトクロスに熱中していた当時の思い出も強く残っていたのだろう、20年後には息子にも体験させている。


あのコジマさんとモトクロス

転校した学校の小学生に小嶋松久がいた。後にコジマエンジニアリング(KE)を立ち上げ、F1に挑戦する、あの小嶋さんだ。

意気投合した富田は、小嶋の父からもたいへん可愛がられ、小嶋家に出入りするようになった。そこにはクルマやバイクがあって、富田は急激に興味をもちはじめる。あの頃は誰もがそうだったけれど、まずはバイクに乗りたくてしようがない。



公立高校に受かれば単車を買ってあげる。育ての叔母がそう約束してくれた。富田少年は急に勉強を頑張りはじめると、仲間内でただひとり公立高校に受かった。


叔母の内職を手伝う条件で、富田は山口オートペットという2気筒の50cc原付バイクを買ってもらう。当時、みんなはホンダのカブを買ったものだが、人気で2カ月待ち。1カ月すら待ちきれない富田は多少性能が劣るけれどもすぐ乗れるオートペットを選んだのだった。それまで園芸好きのか弱い少年だった富田にとって、勉強を頑張って一番欲しいモノを手に入れるという経験は、その後の人生を決めた最初の転機であったことは確かだ。





免許を取ってすぐ、小嶋の勧めでJAFのモータースポーツライセンスを取得し、モトクロスレースにハマっていく。オートバイだけじゃない。ラグビーや玉突き(ビリヤード)、喧嘩まで、日々明け暮れた男らしいモノやコトはすべて小嶋から教わった。

18歳のとき、富田は2台目の単車トーハツ・ランペットでモトクロスレースに初出場することになった。そのときすでに小嶋は全国的に有名なライダーになっていた。






オートペットを買ってもらい納車された日は、一睡もせずに眺めていたという。また、当時マン島TTレースなどに強く影響を受けていた富田は、レーサー風に改造することを決めた。


世界はきっと広いに違いない……

レーシングドライバーになりたい。少年時代にはそう願ったこともあった。当時レーサーになるにはまずライダーとして二輪で成功し、四輪へとステップアップするのが王道だった。

小嶋のアドバイスもあって富田もそれなりに活躍できた。けれども小嶋にはまるで適わなかった。初めてのレースでも富田は、予選第1ヒートの1周目こそ小嶋の教え通りに走ってワークスライダーたちを抑えアタマを取ったが、それが精一杯だった。2周目にはコースアウトしてしまい、予選不通過。一方の小嶋といえばマフラーまわりを小改造しただけの富田のバイクを駆って、予選第2ヒートをトップで駆けぬけている。



富田は早くも悟った。こんなに身近にこんなにも速いヤツがいる。世界はまだまだ広い。レース界にはとてつもなく速いヤツばかりがいるに違いない、と。

もっとも富田は自分に“実力がない”と言い聞かせたかっただけ、なのかも知れない。当時、レースの世界における二輪から四輪へのステップアップには、かなりの資金が必要だった。よっぽど目に止まる活躍をしてメーカーから声を掛けてもらわない限り、自力で戦闘力のあるクルマを買って出ていかなければならなかった。今でも四輪レースに参加するためにはそれなりの経済力が必要だが、当時のそれは今とは比べ物にならなかった。

金持ちしかできない。富田にはそんな余裕などまるでなかったのだった。





あのハヤシさんとル・マン

十代も終わりに近づいた頃。パブリカコンバーチブルで京都の街を夜な夜な駆けていた富田は、いつしか同じように京都でスポーツタイプのクルマを乗り回す若者と知り合った。後に童夢を立ち上げる林みのるだ。

富田が自動車販売ビジネスで成功を収めはじめたころ、レーシングカーコンストラクターの道を歩んでいた林はオリジナル開発のスーパーカー、童夢−零を引っ提げて一躍時の人となった。その名を世界に轟かせた童夢は、79年のル・マン24時間レース初挑戦を皮切りに、日本発レーシングカーコンストラクターとして有名になっていく。






904GTSを通じて多くの仲間との交流を深めた富田。レース後には彼らと旅に出かけるなど、車仲間以上に人として交流を深めていたことがうかがい知れる


富田はル・マン24時間レースを応援しにフランスまで行っている。仕事の都合でレーススタート直前にしか行けない富田が乗る便は、部品などを日本からル・マンへと運ぶ“最終便”でもあった。重たいデフを運んだこともあったという。後にアマダがメインスポンサーとなったとき、林に頼まれて日本から法被を運んだことがある。シャルルドゴールの入国でトラブったが、何とかル・マンに持ち込んだ。この法被が人気で、富田はアルピナのブルゾンと交換してご満悦だった。



レース中にはこんなこともあった。アルナージュを立ち上がったところにあったチームのタイミングピットに豪華な和食の弁当を運ぶ役を買ってでた。シトロエンで場外に飛び出した富田だったが、レース当日のル・マン周辺は大変な渋滞でにっちもさっちもいかない。

そうこうしているうちに白バイの警官と目が合った。やばい。国際免許証なんて持っていない。フランス語も話せない。瞬く間に警官たちと野次馬に囲まれてしまった。知らぬ存ぜぬで押し通そうとする富田。ひとりの警官が片言の日本語で話かけてきた。「日本の免許証はありますか?」

思わず日本の免許証を差し出す富田。万事休す、か。と、警官たちが笑いだした。なんと、子供がクルマを運転していると思われていたのだった。事情を知った白バイの先導で、弁当と富田とシトロエンは悠々、アルナージュへと向かった。



童顔の富田義一。三十代も半ばの話である。



あのタチさんとル・マン

ある時、富田は童夢USAの金古真彦(カーデザイナー)に会いにいこうと林に誘われ、ロサンゼルスへ行くことになった。その機中で林から紹介されたのがレーシングドライバーの舘信秀(後のトムス代表)だった。

当時すでに、日本のツーリングレースにおけるトップドライバーだった館は、セリカターボでアメリカのレースに出る準備のため、林と一緒に訪米したのだった。LAで意気投合した館と富田。舘が童夢セリカターボとして翌年のル・マンに挑戦すると知り、小さいながらもステッカー・スポンサーを買って出た。富田は日本での輸入車販売で日ごろ苦労しているナンバー取得への思いをこめて、市販車ならナンバーが装着される位置にトミタオートのステッカーを貼らせてもらったという(その場所は元々、ハヤシレーシング=林みのるの親戚が経営するアルミホイールメーカー、の場所だった)。その位置がガイシャ販売業者にとって最高のポジションだと思っていた。






ル・マンで仲良くなった生沢徹とは、その後も交流が続き、写真のポルシェ904GTSや、公認チューニングカーなどの話で意気投合した。


残念ながら舘と童夢セリカターボのル・マン初挑戦(80年)は予選不通過に終わっているが、その経験があればこそ、その後トムスと童夢はトヨタをグループCカーによる耐久レース(WEC)、そしてル・マンの舞台へと引っ張り出すことに成功する(ル・マンへの本格参戦は85年から)。

トヨタがル・マンで初勝利するのは、それから30年以上後のことだ。



富田はこの時期、ル・マンや国内レースに頻繁に出入りし、生沢徹や関谷正徳、鈴木亜久里といった名ドライバーたちと交遊を結んでいる。

次回予告

日本レース界の黄金期を垣間みた富田だったが、自身は自動車レース活動より自動車販売ビジネスから逸れることはなかった。否、むしろ身近な仲間たちがレーシングカーを製作し世界へ挑戦する姿を見て、元々あったエンジニア魂に火がつき始めていた。そう、誰かが造ったものを売る、だけでは飽き足らなくなってきたのだ。富田が次に目をつけたのはAMGやハルトゲといった独チューニングカーの世界だった。1980年代始めのことである。

文・西川 淳 編集・iconic

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2019年8月 7日 (水)

車お宝話(512)自動車メーカーになった男 8話

Yoshikazu Tomita (No.8)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第8回

前回までのあらすじ──1970年代後半、日本中の老若男女がスーパーカーに熱くなった。スーパーカーブームだ。けれどもいちクルマ好きとしての富田の興味はイタリアンスーパーカーに留まることなどなかった。英国、ドイツ、フランス、アメリカ……、世界中のスポーツカーに興味をもった。ありとあらゆるクルマを乗り尽くしたからこそ、進むべき次のステップが見えたのだろう。今回は富田が今でも最も好んで乗っている英国車の思い出を振り返ってみよう。

メーカー単位でなく、国単位でのめり込むクルマが変わって行ったという富田。この頃はモーガンやジャガーだけでなく、パンサー、ロータス、ミニ、バンデンプラスなどを集めていた。

英国車:ジャガーの紳士

ポルシェ356とジャガーEタイプが若い頃の富田の憧れだった。サラリーマン時代のこと。当時、日本中がボーリングブームに沸いていたが、富田も例に漏れずハマっていた。否、根っからの凝り性である富田は、サラリーマン生活を抜け出すため、真剣にプロボウラーを目指していた。

通ったボーリング場にはいつもシルバーのEタイプが停めてあった。全国大会出場をかけた予選の最中に恰幅のいい紳士から声を掛けられた。なぜか富田がクルマ好きであることを知っていたその紳士は、「この予選に勝ったら君をEタイプに乗せてあげよう」と言う。聞けば、このボーリング場の経営者だった。

残念ながら富田は予選で敗退した。肩を落として会場を出ようとすると玄関にシルバーのEタイプが横付けされていた。

「よう頑張ったな。食事でもしに行こか」。

Eタイプはそのまま富田をのせて比叡山方面へと向かった。興奮のドライブだった。親の顔すら知らない富田にとって、その紳士は理想の父親にもみえたのだろう。比叡山のレストランでは自分の将来について熱く語っていた。

「そんなにクルマが好きなら早く独立しなさい」と、紳士は富田を激励した。京都では有名な実業家だった。

「ボクもいつかジャガーが買えるように頑張ります!」。

ワインを嗜んだ紳士は、最初からそのつもりだったのだろう、帰り道のドライブを富田に託している。夢見心地のジャガー初ドライブから数年後、独立を果たした富田は緑のEタイプを買って、紳士との約束を果たした。

富田をジャガーに乗せた紳士の子息が目をつけたプラス4。仕様としては標準的だが、コンディションは新車並みだった。

英国車:モーガンの縁起

ジャガーに劣らず富田はモーガンを好んだ。あるとき、店に3台のモーガンを展示していると身なりのいい中年の紳士がやってきて、新車のようなコンディションのプラス4を熱心にチェックしはじめた。

「このモーガンは売り物でしょうか」。紺のブレザーにストライプのネクタイといういかにも英国流の着こなしでもの静かにそう問う紳士に、富田は少し戸惑いを覚えた。似合うのは間違いない。けれども、こんな上品な紳士が果たしてモーガンを乗りこなそうと思うものだろうか……。

話を聞けば、ケンブリッジ大学を卒業してからイギリス生活が長かったのだという。家業の都合で帰国したが、イギリスでよく見かけた憧れのモーガンが忘れられず、日本で夢を叶えようとあちらこちら探していたらしい。

面影がなくもなかった。そう、忘れもしない、彼こそは独立前の富田をジャガーEタイプに乗せてくれたオーナーの子息だったのだ。理想の父親にみえた紳士はすでに亡くなっておられた。けれども、その子息とクルマを介して再び、深い縁を結ぶことができたのだった。

トライアンフ社製のエンジンを積み、内装も本革張りになった特別仕様のプラス4も置いていた。

案の定、彼はモーガンを颯爽と乗りこなした。冬でもオープンにし、バーバリーの襟を立て、ゴルフバッグを助手席に置いて、京都の街なかを当たり前のように走っていた。

ロールズロイスを受け取りに行った帰りに、富士スピードウェイへと足を運ぶこととなった富田。生まれて初めてのF1観戦に憧れのクルマでのドライブで向かうとあり、意気揚々と足を運んだ。

英国車:ロールズの真価

富田の英国車趣味はとうとう極まった。ロールズロイス・コーニッシュを買ったのだ。1976年のことだった。

東京までコーニッシュを受け取りにいく直前に、一本の電話が掛かってきた。旧知のM氏だった。彼は74年から自ら設計したマシンでF1挑戦を続けている。そう、海外のF1レースに日本から挑戦した史上唯一のプライベートチームである、マキF1だ。

資金難に喘いでいたチームは、藁をもすがる気持ちで富田に援助を仰いだ。予選を走るガソリン代にも困っているという。ちょうど東京に行く用事もあることだし、パドックパスも出すというので、富田は喜んで引き受けた。

自らの運転スタイルまで変えられ、F1会場では特別待遇を受けた冨田は、あっという間にロールズロイスにより魅せられた。

初めてドライブするコーニッシュに富田は驚いた。ドライブフィールに、ではない。ドライバーのフィールを変えてしまうことに、だった。ロールズロイスのステアリングを握ると、不思議と落ち着いたのだ。普段のせっかちなドライビングスタイルはすっかり影を潜め、誰に対しても「どうぞ、お先に」という気分になった。ロールズロイスは人間をも変えてしまうクルマだった。

そんなわけで富士への到着が予定よりも随分と遅れてしまった。パスを受け取るはずの場所にはもう誰もいない。まずはクルマをどこかに停めて、と思案していると、フェラーリのチームウェアを着たスタッフに、「専用駐車場へどうぞ」と、ひどく丁寧に案内されるではないか。

フェラーリとロールズロイスの日本販売代理店が顧客サービスの一貫として行なっていたという。今とは違って、ごく一部の限られた人たちだけが所有できた時代だったからこそ、真っ白なロールズロイス・コーニッシュに乗る富田はフリーパスでフェラーリピット脇の専用パドック駐車場まで案内されたのだった。

写真でもわかるように、ナンバープレートこそついていたが、車検や保険は全て切れていた。

英国車:ジャガーの厄難

話は独立直後に戻る。富田が悩んだすえ初めて仕入れた高級スポーツカーは、例のEタイプではなくXK140フィクスドヘッドクーペだった。ワイヤーホイールが珍しい1台で、当時の富田にとってはそれこそ“清水の舞台から飛び降りる”覚悟で購入した青い個体だった。

ところが、このクルマがとんでもない厄介を呼び寄せてしまう。ある日のこと、右も左も分からない新人社員がひとり店番をしていると、近所の若者が狙ったかのようにやってきて、「社長の了解は得ているから」と、XK140をショールームから引っ張りだし、乗っていってしまった。

富田が戻ると、例の新人が血相を変えて飛び出してきた。「社長、大変です!すぐ西陣署へ行ってください」。事務所の前が今出川通りで、東隣に北野天満宮があり、その向かいに西陣署(現上京署)があった。その交差点で、ジャガーが大事故をおこしてしまったという。四重事故でけが人も出ていた。

しかもこのジャガー、ナンバーは付いているけれど車検は切れているし、当然、保険も何も入っていない。若者も新人も、ナンバーが付いているから大丈夫だと思ったことが大間違いだった。しかも、当事者の若者は、事件後すぐに家を捨て行方をくらましてしまった。

結果、所有者責任を問う、ということで、5人分の治療費を持ち主が払えという国からのお達しが来てしまう。富田にも言い分はあった。クルマはほとんど盗まれたのも同然で、しかも全損に近い。賠償して欲しいのはこっちのほうだ、と、霞ヶ関の運輸省まで怒鳴り込んだ。

国の言い分はこうだった。盗まれたことと事故はまるで別の問題。怒り心頭の富田は担当者に雷を落とすと“毎月千円でも良いから返済してほしい”という。結局、富田は国に15年かけて完済している。

このジャガーには後日談がある。ほとんど全損になったジャガーXK140を、とある有名なクラシックカー屋が引き取りにきた。事故の際、ワイヤーホイールが1本盗まれており、揃わないと値打ちがない、などとさんざんケチを付けられた挙げ句、わずか2万円で引き取られていった。

1年後、同じジャガーがきれいに修復され、「日本に1台しかないワイヤーホイール付きXK140」として、とてつもなく高いプライスタッグを付けていた。

霞ヶ関とクルマ屋は、怖い。

次回予告

童夢もコジマも京都から、だった。富田義一もまた、一時は彼らの仲間として行動をともにしたり、レース活動をサポートしたりしている。次号ではトミタオートとモータースポーツとの関わりについて振り返ろう。レース業界との関わりもまた、チューニングカービジネスやオリジナルカーの製作へと突き進むキッカケとなった。

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