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2019年4月

2019年4月17日 (水)

車お宝話(506) 自動車メーカーになった男 3話

CAR

連載
STORIES OF A CAR GUY
Yoshikazu Tomita (No.3)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第3回

──前回までのあらすじ──ポルシェ356に乗りたい! その一念で独立を決意した若き日の富田義一。京都は北野に自分の好きなクルマだけを扱うスポーツカー専門ショップ“トミタオート商会”を設立した。店はたいそう繁盛し、富田自身もまたにわかにポルシェにハマっていく。356に始まり、912、911Sと乗り継ぎ、そしてとうとう伝説のマシン、904カレラGTSまで手に入れてしまった。その一方で、当時の富田は“ちょっと変わったマニアック”なクルマにも目がなかった(文中敬称略)。

文・西川淳 編集・iconic
自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第3回

※本企画は富田義一氏の許可を得て、氏のブログ「ライフ・チューニング 〜これからの挑戦〜」のクルマお宝話シリーズを、再編集したものです。写真の著作権©は富田義一氏に属しています。

疲れ知らずのアルファロメオ

ナロー911Sは確かに京都・東京間を高いアベレージで走りきれるクルマだった。けれども、911を速く走らせて京都まで帰るにはそれなりの疲れを伴うのもまた事実だった。

あるとき富田は東京でアルファロメオ1300ジュニアを仕入れて、いつもの如く自走で京都まで走ることになる。それまでにも何台かアルファロメオを仕入れていた富田だったが、1300ジュニアは初めてだった。

吹け上がりのいいエンジンはたちまち富田を虜にした。1600ccエンジンを積む他のアルファロメオより気持ちがいいとさえ思った。そのうえ、高速走行では安定しており、何よりメカニカルノイズが少なく、ポルシェより随分と静かだったという。

当時は、排気量の大きい方が絶対的に“偉い”時代だった。けれども、排気量が小さくても逆に気持ちよく楽しめるクルマがあることに富田が気づく。小さな排気量で大きな排気量のクルマを打ちのめすことができたら、それはそれで面白いんじゃないか。アルファに乗ってそう思い始めた富田は、徐々にチューニングの世界にも興味を持ち始めた。

そんな経験が後に、オリジナルチューニングブランドの展開へと繋がり、ひいては完全オリジナルカーの製造へと富田を導いていったのだった。

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第3回

東京・京都間をさまざまなクルマで走ったが、その中でも印象深く記憶に残っているのがロータス7(実際には林が運転したが……)。

奪い取った? ロータス7

富田が東京から京都へと自走で帰ることにこだわったのは、単に乗ることが好きだったからだけではなかった。実際に自走で帰ったことで、その個体の程度が保証されることにもなった。逆に言うと、自走で帰ってしまう富田に東京の業者も下手なクルマを渡すことなどできなかった。“自走で京都”は極上の証、だったのだ。

とはいえ万事がポルシェやアルファのようにいくわけではなかった。とある日、日増しに増えた東京の友人たちと一緒に“変わったクルマ話”をしていると、そのうちの一人がロータス7を“預かっている”という。富田はすぐに見たいと言い出し、そのまま友人のガレージに向かった。

果たして、ガレージには本物のセブンがあった。座った富田は車高の低さに驚き、俄然、降りたくなくなった。“預かっているだけ”という友人を何とか説き伏せ、強引に買い取った。そして、スーツ姿のまま、そのまま京都へ帰ると言い出したのだ。

夜の9時過ぎ。富田は東名高速へ向かって走り出す。飛ばせば夜中の2時くらいには着くだろう。そう高をくくっていたら、突然、セブンが息を止めてしまった。うんともすんとも言わない。

ところは霞町の交差点付近だった。

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第3回

試しに運転席に座らせてもらったところ、極端に低い車高が気に入ったという。

人もよびこむロータス7

スーツ姿のままセブンのエンジンルームを開けて覗き込んでいると、何やら巨大な影が迫ってくる。振り向くとそれはロールスロイス・クラウドⅡだった。

セブンの後に停まったロールスから男性が降りてきて、声をかけてきた。

「故障かい? ボクの修理工場が近くにあるから、診てもらったらいい。このクルマ(セブン)なら治せると思うよ」

ありがとうございます! 富田はそう感謝しながら、薄明かりのなか目を凝らしてその男性を見つめてみれば、どこかで見た顔が……。俳優の夏木陽介氏だった。

夏木のクルマ好きは当時も有名で、なかでも英国車が好きであるということを富田も知っていた。それから二十年ほど後、舘 信秀氏(トムス創設者)の紹介で夏木と再開した富田は、このときの話を持ち出しもう一度深く感謝して盛り上がったという。

夏木の工場は東京タワーの近くにあったと富田は記憶している。工場のスタッフとも大いにクルマ談義で盛り上がったが、セブンが治ったら明日、自走で京都まで帰るというと工場の人たちは大いに驚いたらしい。英国車をよく知るプロが驚くほど、当時、それは本当に無茶な試みだった。

図らずもそのことは、翌日、証明されることになる。

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第3回

 

みのる対ロータス7

翌日引き取りに来るからと夏木の修理工場を後にした富田は、京都の友人で当時しょっちゅう東京に来ていたという林 みのる氏(童夢創設者)に電話を入れた。ロータスの話をすると代わりに京都へ乗って帰りたいという。

京都で仕事のあった富田はこれ幸いとセブンを林に託し新幹線で戻った。ロータスに詳しい林のこと、心配せずともその日中には戻ってくるだろうと思っていたら、当の林から電話が入る。聞けば、まだ静岡らしい。クルマの調子が悪いのか?と質すと、風の巻き込みがひどくてまともに走れなかったらしい。

もう肌寒さを感じる頃だった。簡易型トップはあるけれど、サイドウィンドウはない。速く走れば冷たい風に方々からさらされるし、ゆっくり走れば排ガスを巻き込んで窒息しそうになる。仕方なく東名川崎で降りた林は、ジャンパーとゴーグルとガムテープを必死に探した。インターネットなどない時代の話だ。苦労であったことは想像に難くない。

やっと手に入れた林は、テープで隙間や首筋を覆って、ようやく静岡まで辿り着いたのだという。申し訳なく思った富田は、「明日、好きなクルマで迎えに行くから、とにかく名古屋まで走ってきてくれ」と林に頼んでいる。林のリクエストはBMW2002tiiだった。

名古屋で落ち合ってみると、長い髪の毛までガムテープで留め、風が入らないようにと首筋や手首までもテープでぐるぐる巻きにした林がいた。

富田は申し訳ない気持ちでいっぱいになったという。

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第3回

 

次回予告──ポルシェより思い出深いアルピーヌ



リバイバルで何かと話題のアルピーヌA110。
その昔、日本における初代のブーム火付け役もまた富田義一だった──

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2019年4月 4日 (木)

車お宝話(505)自動車メーカーになった男 2話


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2019.03.31

Yoshikazu Tomita (No.2)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第2回


前回までのあらすじ── メカニックとして自動車販売会社に勤め始めた
富田だったが、ある時、京の街中でポルシェ356に出会って衝撃を受けた。
乗ってみたい! けれどもこのままサラリーマンを続けていたところで、
一生ポルシェになど乗れっこない。そう悟った富田はすぐさま独立を決意。
京都は北野にトミタオート商会を設立する。自分の好きなクルマだけを扱う
スポーツカー専門ショップは繁盛し、富田もまたにわかにポルシェにハマって
いった。


文・西川淳 編集・iconic

Miura_2


自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第2回
※本企画は富田義一氏の許可を得て、氏のブログ「ライフ・チューニング 
?これからの挑戦?」のクルマお宝話シリーズを、再編集したものです。
写真の著作権cは富田義一氏に属しています。


憧れのスターが駆った幻のポルシェ

1964年、第2回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催されたとき、富田は19歳だった。
日産ワークスのスカイラインGTで走る生沢徹や、プライベートながらポルシェカレラGTS
(904)を駆った式場壮吉といえば、当時の富田にとって、雑誌でしか見たことのない
ような雲の上の人たちだった。

自分の店を立ち上げ、ポルシェをある程度自由に乗って楽しめるようになると、益々、
クルマ好きの友人が増えてきた。もとより不思議と人に好かれる男だった。ある時など
雑誌の“クルマ売りたし買いたし”欄で赤い356スピードスター(前回の写真参照)を
見つけてオーナーに会いに行ってみれば、「クルマ屋さんには絶対売りたくないけれど
富田さんには譲ってもいいわ」、となぜか気に入られ(女性だった。もてたのだ)、
富田は富田で「昔から憧れのクルマだったんです」、と引き取り、律儀にも、

そしてクルマ屋らしくないことに、なんと9年間もその赤いスピードスターを所有して
いたのだという。富田の人柄が偲ばれるエピソードだろう。

“幻のポルシェ”との出会いも、クルマ好き(というかプロフェッショナル)の友人が
縁だった。後に日本で最も有名な自動車評論家となった若かりし日の徳大寺有恒(杉江博愛)
を通じ、浮谷洸次郎(伝説のレーサー東次郎の父)と親しくなった富田は、ある時浮谷から
式場が日本GPで駆ったポルシェ904GTSを見に行かないかと誘われた。浮谷の友人が所有して
いるのだという。憧れのポルシェに会える!富田は喜び勇んで関東へ出向いた。

まるで宇宙船のよう

ガレーヂを訪れてみれば、ボディカバーを被ったまるで宇宙船のようなシルエットの物体が
そこにあった。初めての904、しかも伝説の個体。シルバーに輝く幻のポルシェに圧倒された
富田だったが、そこはやはりクルマ屋だ、売るつもりなど毛頭ないオーナーに向かって、
「万が一手放されるようなことがあれば、ご一報だけください」と、最低限のオファーを
かけたのだと言う。

しばらく経って、とある自動車雑誌にそのポルシェ904が取り上げられていた。
写真のキャプションまでつぶさに読んでいると、「売るつもりはないけれど、
もし売ることがあったとしたら京都のT氏に譲ることになっている」といった
主旨の一文があった。富田はすかさずオーナーに連絡をとり、
いつまでも待っている旨を伝えている。

このあたりの記憶は定かではないというが、それからまた1、2年ののち、
おそらくは浮谷を通じて運命の連絡がきた。幻のポルシェを譲ってもいい。
取る物も取り敢えず富田は駆けつけた。

実をいうと、買った値段はもちろんのこと、乗って帰った道中の記憶まで
ないらしい。確かに京都まで自走で帰っている(写真が残っている)。
けれども、まるで記憶がない。

宇宙船に乗った富田は興奮の極みにあったということだろう。

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1964年の第2回日本グランプリで式場壮吉がドライブしたポルシェ カレラGTS(904)。
富田は幻のポルシェを決して飾るようなことはせず、ガンガン走らせた。

オリジナルエンジンは要りません

富田とポルシェ904GTSに関しては面白いエピソードがいくつかある。
購入に際してひとつだけ鮮明に覚えているのが、オリジナルエンジンのくだりだ
(前述したようにその他のことはほとんど記憶にないという)。

実は当時、この有名な個体にはオーナーの趣味で911S用の2リッター フラット6が
積まれていた。オリジナルのエンジンは2リッター空冷水平対向4気筒DOHCで、
それでも当時のレーシングカーとしては乗りやすく、市街地走行もできると
言われていたが、
よりハイパワーな6気筒で軽い車体を存分に楽しみたいというのがオーナーの希望だった。
おそらくはオリジナルエンジンを大切に保存しておこうという意味合いもあったのでは
ないだろうか。

いよいよ譲ってもらえるとなったとき、当然、オーナーから
「4気筒のオリジナルエンジンも必要ですか」と富田は聞かれている。
今となっては信じ難いことに富田は即座に、「要りません」と答えたのだという。

このころの富田に懐古趣味などまるでなかったのだ。
オリジナルのレース用高回転型4気筒エンジンより、乗り易くてパワーのある
6気筒が良いに決まっている。
富田のそんな思考(これからもそんな逸話が何度も出てきます)をモノ知らずだと
言って笑うのは簡単だ。

けれども、その頃のポルシェ904は伝説のクラシックカーでも何でもなく、
ただ現役を退いた(つまり一線級ではない)レースカーだったということを
理解しておかなければならない。

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オリジナルエンジンは2リッターの空冷水平対向4気筒DOHCエンジンを搭載していたが
、前オーナーが2リッター フラット6に換装していた。実用的なエンジンだったこともり、
富田はそのままオリジナルに戻すことなく乗り続けた。

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スポーツカー専門ショップであるトミタオートの客が乗るデ・トマソ・パンテーラ(左)や
BMW 3.0CSL(右)、さらにはランボルギーニ ミウラSUVと頻繁にドライブしたという。

 


自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第2回
富田のポルシェ カレラGTSを先頭に。その2台後ろにいるランボルギーニ ミウラSUVには
峠道ではどうしても付いていけなかったという。


ミウラに負けた

当時は一般的にレーシングカーといえば“ぽんこつ”と同義だった。
しかも今とは逆にレース戦歴があればあるほど安モノ扱いされていた。
カテゴリーやレギュレーションの変更で使えなくなったレースカーなど用無しの邪魔モノ、
かさばるだけで倉庫のこやしにもならない。シーズンオフの年末ともなれば、
お役御免のレースカーをただ同然で買うことができた時代だった。

ポルシェといえどもそれが当たり前で、レーシングカーの価値がロードカーを上回って
くるのはつい最近の話である。

ちなみに、ポルシェ904はそもそも6気筒エンジン搭載を前提に設計されており、
ドライバーの背後には十分なスペースがあった。
後にポルシェも904/6というフラット6搭載モデルを製作している。

乗用車用のフラット6を積んだ904は当然のことながら、とても乗り易かった。
ただ、外から見るにもまして狭かった記憶があるという。

富田は904をガンガン走らせた。ふた月に一度のペースで開催していた一泊二日の
ドライブ会でのこと。客の駆るランボルギーニミウラSVを、BMW3.0CSLや
デ・トマソ・パンテーラ、ポルシェカレラRSとともに、富田は904で追いかけていた。

ストレートでは速い。4リッター12気筒ミドシップを積んだミウラSVにも十分ついていける。
2リッターしかなかったけれど、車体が軽かったからだ。ところが峠道をかなりの速度で
駆けぬけるリアタイヤの太いミウラSVにはどうしてもついていくことができなかった。
トレッドが狭く、タイヤも細かった904では、峠道のコーナーで思うように
速度を出せなかったからだった。

このときの経験が、後のオリジナルスポーツカーに生かされることになろうとは、
その頃の富田はまだ知る由もない。(つづく)


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