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2008年6月21日 (土)

車お宝話(62)世にも不思議な物語  Ⅰ

      

この話は、本当に不思議な話なので、是非ともお話したいと思う。

前々回にも書いたように、母親との36年振りの再開話なのだが!

僕は両親とも兄弟とも、僕が3歳の時に失ったと以前にも書いたが、
実は母親だけは生きていて、俗に云う、生き別れという奴だった。

母は貧しい岡山の寺の娘で、幼い頃に京都のお茶屋に幼女に出され
ていたらしく、14歳で舞妓に上がり、18で芸妓になったという。

その芸妓ちゃんに、事業で成功していた父親が惚込んで結婚したの
だというのだが、やはり正妻となると、親戚や親などの反対が強く
大変だったらしい!

そういう経緯があるから、3歳で父が亡くなった時に、親戚などに
家に留まることを阻止され、僕を残してどこかへ消えたのだという。

母は僕を捨てたのではなく、父の跡取り息子として残されたのだ!

でも、そのことを知らされないまま、叔母の元で育った僕は、永く
母親を恨んでいた。

そんな僕でも、多少は事業に自信ができ、仕事も順調に流れ出した
頃には、逢ってみないと分からないが、気持ちの上では母を許せる
ようになっていたと思う。

そんなとき、確か30歳半ばだったと思うが、僕の境遇にそっくり
のテレビドラマが・・・!

テレビドラマの中で、丁度その頃の僕と同年代の息子が船に乗って、
まだ見ぬ母に会いに行くシーンがあった。

テレビドラマの母親と息子の再開が、現実とダブり、なぜか生みの
親を探し出そうと思い立った。

といっても手掛かりはほとんどない・・・!

母の旧姓と、たった一枚、別れるとき近所の写真館で撮った写真が
あるだけで、その他は何も聞かされていないから、心当たりもない。

幸いにも、母の旧姓が数少ない名前だったから、電話帳で調べたら
意外にも早く、母の親戚が見つかったが・・・!

親戚縁者いわく、永く音信不通で詳しい事は知らないが、もう既に
生きていないのでは・・・と!

もっと早く探せば良かったと多少は後悔したが、もうそれ以上探す
すべもなく、忙しい日々の中・・・忘れてしまった。

それから数年が経ち、1984年、39歳の時になぜかメジャーな
ファッション雑誌の取材を受けた!

「MR・ハイファッション」という文字通りのファッション誌だが、

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モデルでもないのに、用意された服を着て、カメラに収まった!

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後に、この写真が大活躍するのだが、そのときは何も知る由もない。

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この取材の直後、僕は例の真珠腫で長期入院することに!

この入院生活で得たことは、お宝話(55)の「得する心の使い方」
で詳しく書いている。

ところが、この入院生活で、実はもう一つの大きな収穫があった。
それはこの入院が、結果的に母との再会を決定付ける役目をするのだ。

真珠腫とは三半規管の病気で、僕の場合、仕事にかまけて随分と放置
していたので、脳にうみがかなり溜まっていたらしく長期入院となる。

耳の横の頭がい骨を、何とドリルで穴を開けて手術したらしく、僕の
頭の中には、一部セラミックの骨が入っているのだそうだ!

だから鼓膜のない左の耳は、今でもほとんど聞こえない。

2か月近くの入院を経て、退院とはなったが、社会復帰するまでには
半年を要すると、長い入院で親しくなった担当医が教えてくれた。

退院後、暫くすると入院前に取材を受けた「MR・ハイファッション」
が送られてきた。

それから数日経ったある日、知らない年配の女性から電話が掛った!

 続く・・・                                

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