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2008年6月

2008年6月28日 (土)

車お宝話(64)追悼、オベ・アンダーソンとF1

   

F1だけはかかさず観ている僕だが、最近のF1は面白くなかった!
殆どのレースで、トップ3に入るドライバーがほぼ分かってしまう。

より商業ベースとなったF1グランプリが、多額の資金を必要とする
モータースポーツになって久しいが、最早、大企業の資本の元でしか
活躍できないことはよく分かる。

今やホンダのような世界的企業でも、前で走るのは大変なのだから!

でもテレビにしろ、サーキットにしろ、観客があって始めて成立する
興行なのだから、もう少し何とかならないのかと思うのは、僕だけで
はないだろう!

でもこれがモータースポーツという奴だろう。

人間の身体だけを使うスポーツと違うのだから、お金は幾らあっても
キリがないのだろうが!

いま話題になっている水泳など、金がかかるのはスイミング・スーツ
ぐらいのものなのだから!

F1の場合、金を掛ければマシンの精度が上がって、耐久力が増し、
性能も上がる、その上、空力など、とんでもないレベルで開発できる。

だから昔のように、いい意味のハプニングなどあるはずもなく、見て
いてもワクワクすることがないから、仕方なく自分の予想が当たるか、
当たらないか、ぐらいの楽しみしかなかったが!

ところが、先週のフランスGPは久々に興奮し楽しませてもらった!

観られた人は最早お分かりだろうが、トヨタのJ・トゥルーリの活躍
は特筆に値する。

運転を職業としているプロドライバーが「逝去した一人の偉大な故人、
オベ・アンダーソンに捧げるために」・・・・と頑張ったのだから!

トヨタのF1チーム全員が出した結果だ、マシンを造る人もメカニックも!

こういう感覚は、日本のお家芸だったように思うのだが・・・
少なくとも僕は、その意識が表彰台という結果を出したのだと信じる。

僕だって、例え一度だけとはいえ一緒に食事をした事がある憧れの人。
そのアンダーソン氏のために、僕は必死にJ・トゥルーリを応援した!

アンダーソン氏とのことは「お宝話(31)NAVI・突然の取材」
の中に、楽しい会食中の僕の失敗談なども含め、書いているけど!

確かに今年のトヨタは予選でもかなり前の方に居るけど、表彰台に届
くには今一歩といった感じだったから、余計に熱が入ったのだと思う。

最初に書いたように、高度になったマシンが勝敗を決めることが多く
なった現代に於いて、まだまだ人間の気迫が通じる余地があるのだと
教えてくれたレースだった。

だから何といっても、このJ・トゥルーリの表彰台は偉業といえるだ
ろう・・・そんなことも含めて久々に興奮し、楽しめたのだと・・!

それにしてもオベ・アンダーソン氏は、70歳でクラシックラリーに
出ていての事故ということらしいが、そのバイタリティーに脱帽だ。

以前に触れたポール・フレール氏も、90歳になってなおテスト走行
での運転技術は天下一品だったという。

やはり自動車の歴史の中で生きて来られた人達なのだろう!
こと自動車に関しては歴史の重みを感じずにはいられない。

このお二人と比べれば僕はまだまだ若輩だけど、人生の大半を自動車
に生きてきた者として、大いに見習いたいと思っている・・・!

                ご冥福を祈ります・・・合掌

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2008年6月25日 (水)

車お宝話(63)世にも不思議な物語 Ⅱ

       

その女性が云うには・・・

「私はあなたのお母様の東洋医学の弟子で、京都に住んでおります。」

「雑誌を見ていて偶然にあなたの写真を見つけました。ところが頭の
 中に何か障害があるように見えたので、すぐにお母様に報告した所、
 あなたと連絡を取ってほしい。出来れば会いたいとおっしゃって
 います。」と!

写真を見ただけで、僕の脳に障害があることを見抜くなんて・・・!

確かに、写真を撮った段階では、まだ入院していないから、脳に障害が
あることは事実だが、それにしても、そんなことが分かるなんて驚きだ!

そんな僕の驚きなど気にもかけない様子で・・・

・・・・「一応、お母様の連絡先をお知らせしておきます。」と云って、
電話番号を教えてくれた!

勿論、既にこの世にいないと思っていた母に会えるのならと、半信半疑
だったが、教えてもらった電話番号に掛けてみた。

「もしもし、もしもし」・・・・・紛れもない母親だった!

36年振りというより、初めて話すようなものなのに、なんとも言えない
安心感と、なれなれしさに、血のつながりを強く感じた。

親と子とは、一瞬にして、こんなにも打ち解けるものかと・・・!

色々話したが、聞けば聞くほど、その神がかり的な不思議さに、母親の
凄さを感じずにはいられなかった。

こうやって母親と現実に話が出来るのも、脳の障害が発見出来たからで、
そのきっかけを作ってくれた雑誌が「MR・ハイファッション」だった!

実は、僕がどこで何をしているのか、母は以前から知っていて、京都の
お弟子さんからは、定期的に僕の情報を得ていたのだという。

一生名乗り出ない積りだったが、今回のことで心配のあまり逢う気持ち
になったらしい。

母の言葉を借りると、「私達のやっている東洋医学では、写真からでも
           障害を感じ取ることが出来る」というのだ!
その母が・・・
電話口の向こうで、「CTスキャンを撮って、そのフィルムを見なけれ
          ば安心できないから、すぐに撮ってくれ」という。

僕は余りの不思議さに驚きながらも、入院していた事や、頭を手術した
事を話し「だからもう心配はないよ!」と云ったが聞き入れてくれない。

結局、CTスキャンのフィルムを持って、新幹線の三島駅で逢うことに!

数日後、36年前の写真を胸に、何とも言えぬ特別な気持ちで新幹線に
乗り込んだ。

その写真には若く美しい母が写っている、でもこれから逢う母親は一体
どんな風に歳を取っているのだろうか・・・!

流れる車窓の景色を見ながら、そんなことをぼんやり考えていたと思う。

新幹線がホームに着くと、すぐに、そこにたたずむ姿が母だと分かった。
もう60歳、想像とは違うが何の違和感もなく無事、三島駅で対面した。

逢ってすぐに、母の家に行こうということに・・・!

ところが、自宅は伊豆の戸田だから、沼津から船に乗って行くという!
それではテレビドラマと同じだと、ビックリしてしまった。

余りの偶然に、あのテレビドラマを見た時から、母との再会は決まって
いたのではと、錯覚してしまった!

この神がかりな仕掛けも、またまた、母の仕込みかも・・・!

戸田の港は、日本に黒船が最初に来航したゆかりの地で、そこの一番高
い所に、立派な邸を構えていた。

テレビドラマの話をしたら、それは予知夢見たいなものだと平然と云う!

その後、またまたビックリするようなことを言いだした・・・

母いわく「お前が以前ヨーロッパからの帰りに、飛行機の中で倒れた時、
     私は一生懸命、遠隔治療したんだから・・・」などと云う!  

・・・遠隔治療も出来るというのだから、おどろいて声も出ないよ!

なるほど飛行機で倒れたことなど、話してはいないから遠隔治療は本当
なのだろうが・・・!

この時は医者から「今夜が峠だろう!」と言われたが何事もなく済んだ。

世の中不思議なことは沢山ある、そういえば僕も遠隔治療は出来ないが、
手当は出来る。

痛む所に僕の手を当てると、痛みが和らぎスヤスヤと眠ってしまう・・
この事を母に話すと「当り前だよ、私の血を引いているんだから」と!

僕の知ってる母親は、結婚するまでは、舞妓上がりの芸に生きた人!

いつからこんな凄い東洋医学の世界に入ったのだろうと!

聞けば、僕と離れてから一人で東京に行き、師匠となっていた日本舞踊
を生かして国立劇場で踊っていたのだと、当時の写真を見せてくれた!

母はその後、大病をしたらしく、その時助けてくれた東洋医学の先生に、
「あなたは人を救うために生まれて来た人だから、治療者になりなさい」
と言われて、30年ほど前に弟子になったのだという。

その師匠の先生は、その分野では第一人者だったのだという。

それにしても人の運命は分からない・・・!
何とも不思議な話ばかりだが、すべて本当の話です・・・!

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2008年6月21日 (土)

車お宝話(62)世にも不思議な物語  Ⅰ

      

この話は、本当に不思議な話なので、是非ともお話したいと思う。

前々回にも書いたように、母親との36年振りの再開話なのだが!

僕は両親とも兄弟とも、僕が3歳の時に失ったと以前にも書いたが、
実は母親だけは生きていて、俗に云う、生き別れという奴だった。

母は貧しい岡山の寺の娘で、幼い頃に京都のお茶屋に幼女に出され
ていたらしく、14歳で舞妓に上がり、18で芸妓になったという。

その芸妓ちゃんに、事業で成功していた父親が惚込んで結婚したの
だというのだが、やはり正妻となると、親戚や親などの反対が強く
大変だったらしい!

そういう経緯があるから、3歳で父が亡くなった時に、親戚などに
家に留まることを阻止され、僕を残してどこかへ消えたのだという。

母は僕を捨てたのではなく、父の跡取り息子として残されたのだ!

でも、そのことを知らされないまま、叔母の元で育った僕は、永く
母親を恨んでいた。

そんな僕でも、多少は事業に自信ができ、仕事も順調に流れ出した
頃には、逢ってみないと分からないが、気持ちの上では母を許せる
ようになっていたと思う。

そんなとき、確か30歳半ばだったと思うが、僕の境遇にそっくり
のテレビドラマが・・・!

テレビドラマの中で、丁度その頃の僕と同年代の息子が船に乗って、
まだ見ぬ母に会いに行くシーンがあった。

テレビドラマの母親と息子の再開が、現実とダブり、なぜか生みの
親を探し出そうと思い立った。

といっても手掛かりはほとんどない・・・!

母の旧姓と、たった一枚、別れるとき近所の写真館で撮った写真が
あるだけで、その他は何も聞かされていないから、心当たりもない。

幸いにも、母の旧姓が数少ない名前だったから、電話帳で調べたら
意外にも早く、母の親戚が見つかったが・・・!

親戚縁者いわく、永く音信不通で詳しい事は知らないが、もう既に
生きていないのでは・・・と!

もっと早く探せば良かったと多少は後悔したが、もうそれ以上探す
すべもなく、忙しい日々の中・・・忘れてしまった。

それから数年が経ち、1984年、39歳の時になぜかメジャーな
ファッション雑誌の取材を受けた!

「MR・ハイファッション」という文字通りのファッション誌だが、

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モデルでもないのに、用意された服を着て、カメラに収まった!

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後に、この写真が大活躍するのだが、そのときは何も知る由もない。

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この取材の直後、僕は例の真珠腫で長期入院することに!

この入院生活で得たことは、お宝話(55)の「得する心の使い方」
で詳しく書いている。

ところが、この入院生活で、実はもう一つの大きな収穫があった。
それはこの入院が、結果的に母との再会を決定付ける役目をするのだ。

真珠腫とは三半規管の病気で、僕の場合、仕事にかまけて随分と放置
していたので、脳にうみがかなり溜まっていたらしく長期入院となる。

耳の横の頭がい骨を、何とドリルで穴を開けて手術したらしく、僕の
頭の中には、一部セラミックの骨が入っているのだそうだ!

だから鼓膜のない左の耳は、今でもほとんど聞こえない。

2か月近くの入院を経て、退院とはなったが、社会復帰するまでには
半年を要すると、長い入院で親しくなった担当医が教えてくれた。

退院後、暫くすると入院前に取材を受けた「MR・ハイファッション」
が送られてきた。

それから数日経ったある日、知らない年配の女性から電話が掛った!

 続く・・・                                

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2008年6月18日 (水)

車お宝話(61)「モノ造りを通して見た夢」Ⅱ

      

前回、対談のタイトルを「挑戦!30代からの株式公開」と書いたが!

実は僕が30代の後半、野村証券が将来の公開企業を育てようと日本合同
ファイナンス(現ジャフコ)を設立、その合同ファイナンスから、ある時
電話が掛った!

その頃の僕はそんなことにはトンと疎く「どうせ何かの売り込みだろう」
ぐらいにしか思っていなかったのだが・・・・・!

電話の主は合同ファイナンスの大阪支店長のI氏で、取引銀行からの紹介
で、ぜひ一度会いたいと云う内容だった。

後日来社してもらって話を聞く内に、これはとんでもない話だと・・・・
・・・・要するに僕の会社を株式公開し、上場させようという話なのだ!

その当時、ハッキリとは覚えてないが、京都と滋賀を合わせても上場企業
は僅か16社しかなかったと記憶している。

その頃、当社の売上高は20億強で,急成長していることは確かだったが!

ジャスダックやマザーズなど、まだ店頭株のない時代、株式上場企業など、
雲の上の存在だった。

例えれば、京都大学に合格することの100倍以上の値打ちがあるから、
是非チャレンジして欲しいと、紹介者の銀行の役員が云う!

その頃、クルマのことなら何でも知っていると自負していたが、この分野
の事は無知の一言!

根が単純だから、目覚めたその日から猛勉強を始めることに。

幸い合同ファイナンスのI支店長とも意気投合し、毎週のように京都の僕
の会社に来て、アドバイスをくれた。

そのうち野村証券の役員が、入れ替わり立ち替わり、8人ほど来られたと
記憶している。

聞く話、聞く話、どれもが新鮮で、全てが勉強になることばかりだった!

今まで自分が生きてきた世界と、これから生きようとする世界では天と地
ほどの差があることに、興奮と緊張を覚えた。

今まで「夢のまた夢」と思っていたことが、現実に野望として持つことが
出来るのだから、興奮せずにはいられなかったが。

しかし、この時の話は自分から潰してしまった・・・・・!

最後に来た野村証券の役員が、余りにも、金儲け、金儲けと、云うから、
まだ純粋だった僕がついて行けず、「お引き取りください」と言って
しまったのだ!

それでも、この頃に大きく人生の目標が変わったのだと思う!

後の公認チューニングカーや、オリジナル・スポーツカーも、このときに
決まったようなものだと・・・・・!

それから15,6年して、「つばさ証券」を主幹事に株式公開することを
公表、投資委員会も通過してファンドも決まった。

この時の自社株は額面500円だが、株価算定では13,000円も付けた。
自分の会社の価値が20倍以上にもなったのだから、本当にうれしかった!

ところがあと一か月という時に,今度は自分からではなく,不運にも取引銀行
が倒産し、審査が無効となってしまった!

でも人生は長い・・・・心身共に若くなった今、まだまだ諦めてはいないが!

話は変わるが、出てきた資料の中に、”起業家のためのビジネスマガジン”
インプレション・ビジネス誌があった。

56歳の時の取材で、僕が面白いことを言っている・・・・・・!

好きだという気持ちに自信があれば、「夢で飯は食える」はずと!

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この取材からまだ7年ほどしか経っていないのに、すっかり忘れていたが、
「夢で飯は食える」はず、とは良く云ったものだと改めて感心した。

思い起こせばその頃まで、何があっても、何が起きても、不可能などと、
思ったことなどなかったように思う!

永い間の色々な積み重ねが、余程の自信になっていたのだろう。

このビジネス誌の文中にある、僕の言葉を紹介しよう!

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 「そのうち"夢で飯は食える"という本を書こうと思っているんですよ!」

 「夢を見ることは誰にでも出来る、ただ簡単にあきらめるようなものは
 “夢”ではない。失敗したときの言い訳を、心の中に用意しておいては
  いけない!」と!

 「自分のところでスポーツカーを造るのは、他の人には勧められない。
   一台開発するのに、フェラーリが何十台も買える費用がかかるから、
   しかも、そんなに儲からない。」と富田は笑う・・・と書いてある!

要するに、人はよく「夢」で飯は食えないと云うが、ナントか食べられる
から、あきらめずに「夢」を持ち続けようよ、と云いたかったのだろう。

だから「夢で儲かる」とは言わないで、「夢で飯は食える」と言ったのを、
今思い出した。

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2008年6月14日 (土)

車お宝話(60)「モノ造りを通して見た夢」Ⅰ

    

凄ーい!・・・お宝話も早いもので60話に突入してしまった。

週2回のペースで書いているのだから、当り前と云えば,当たり
前のことだけどね!

でもこのブログのお陰でPCのテクニックはとんでもなく進歩
したと思う。

とは言っても、僕のレベルでの話だから・・・!

以前にも白状したけど、昨年の10月に初めてPCのキーボード
を叩いたのだから・・・でも周りのスタッフは感心してるけどね!

自慢話はこれぐらいにして、折角の60話なのだから、予告通り、
僕のモノ造りの真髄のようなものを、資料をもとに書いて行こう
と思う。

前回も書いたように、これも引っ越しをしたお陰で資料が出てき
たから出来ること!

ベンチャー企業を取り上げた経済誌や新聞、イギリス中心とした
海外の新聞や、自動車誌など色々と大量に出てきた。

少し時間をかけても、時々この資料の中から書こうと思う!

それにしても著作権の問題で、表紙や記事が紹介できないのが
なんとも残念だが・・・でも乗せることに!

有難いことに、若い時から取材が多かったから、資料はふんだん
にある。

中には、幼い頃から36年も逢えなかった母親と、逢うきっかけ
を作ってくれた思い出の、MR.ハイファッション誌も出てきた。

この母との再会話しはホントに不思議で、ぜひ次回にでも紹介し
たいと思う!

ほんの一部だけど下見のつもりで目を通して見たら、随分と記憶
とは違う、だからかえって新鮮な気持ちになって、読んでしまった。

本当に人の記憶とは、いい加減なものだな~と驚いてしまう!

さてさて、僕のいつもの悪い癖で,前置きが長くなってしまうから、
さっさと本題に入ってしまう!

前回「おこがましいが,僕も冒険家の端くれだと自負している」と
書いたが,これはベンチャー起業家も同じだと思う所があるからだ。

丁度10年前、東洋経済新報社・ベンチャークラブの10月号に、

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「挑戦!30代からの株式公開」の題目で対談記事が掲載された。

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僕の対談相手は、その頃お世話になっていた、株式公開のコンサル
タント会社、社長で,今迄に公開の指導をされて有名になった企業は
数多い。

当時、僕も公開候補会社の社長として、多少は注目されていたが、
やはり新分野なので資金調達の壁が高く、IRが必要だった。

[IR(アイアール)とは公開前も公開後も,株主に対し企業の姿を
あらゆる角度で開示しアピールする事]

そんなことでIRの一貫として,コンサルタント会社の社長が対談
を組んでくれた。

自動車関係の人や車好きの人には多少は知られていたが、他分野
や金融関係者には、まだまだ知名度は低かったから有難いことだ!

それでも僕はラッキーな方で,株式公開もしていない割には経済誌
や、日経、読売、朝日、産経新聞などによく掲載されていた。

やはり京都経済同友会からのリリースが大きかったのだろう。

このベンチャークラブ誌の、僕の対談コメントを紹介しよう!
 
「10年,20年と自分の夢や理念を貫いて行けるような精神力が
 なければ、ベンチャーを語る資格はありません。

 僕は毎年利益を着実に上げるという発想で経営していません。
 
 10年後を見据えています。10年目で何十倍、何百倍と稼げ
 ればいい、チューニングカーも丁度10年やってきて,
 ようやく大きなビジネスになろうとしています。
 
 今日,明日の事はかえって分かりませんが,10年先はしっかりと
 見える。僕は砂金採りではなく、金鉱掘り、信じて掘るから金が
 出てくるのです。

 アメリカ的に考えたらカネが全てでしよう。日本でも株式公開
 が夢と云う経営者が多い,でも,僕は上場はあくまでも資金調達
 の一手段と考えています。」

 ・・・まぁ振り返って見れば若かったな~と!
 
 確かに自信もあり、信念も感じられるが,企業は毎年利益を上げ
 ないと人が認めないんだよね~!
 
 特に現在は、世界中がマネーゲームをしているから余計だ!

                   次回に続く。 

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2008年6月11日 (水)

車お宝話(59)出てきた膨大な資料!

    

大阪に来て4回目の引っ越しを、ひと月ほど前に済ませた!

静かな所に住みたいと、当初は宝塚歌劇で有名な宝塚に1年
ほど身を置いていたのだが、ちと遠い。

それでも京都から通うよりは遙かに近いが!

当然クルマでの通勤だから、渋滞がなければ時間はさほどでも
ないのだが、4年ほど前の高速道路は混む事が多かった。

今ならガソリンの高騰でスムーズに流れているのだろうが!

その後3回の引っ越しは、いずれも50メートル以内の近所を
転々としいているのが実情で、引っ越しという気分ではない。

それでも引っ越し屋さんのお世話になっているのだが、1回目
の引っ越しの時と比べ荷物の増えたこと、増えたこと!

引っ越しをする度に、荷物が増えていることに驚く。

人が暮らすという事は信じられないぐらいの「モノ」を必要と
するものだと、改めて感心してしまった。

その「モノ」を買い揃える度に思うのだが、昔と比べ、品数も
種類も桁違いに多いから、有難いを通り越して選ぶのが大変だ!

だからネット通販が栄えるのかと、変に納得してしまった。
それと同時に、改めてブランドの大切さを思い知った気がする!

自分の予算と感性が合うブランドさえ覚えておけば、わざわざ
忙しい中、買い物になど行かなくても、「モノ」はすべて揃う。

まぁ便利なことや、美しいことに加え自分の趣味や感性に合った
ものを探すのは江戸時代から既にあったが!

それでも現代は,電気製品、生活用品、台所用品、衣類、装飾品
と大まかに分けても、かなりの量になってしまう。

だから必然的に量が増えてしまうのだけれども!

これは昔の自動車が必要なものだけ標準装備し、他はオプション
だから軽かったのと同じで、現代はどの車種もほとんどが全装備
となっているから重量の増加は半端ではない!

今時、クーラーやヒーターやABSが付いてないクルマはないから。

人間、余り贅沢になってはいけないな~とは思うが。

かと云って、いまさら使い慣れた便利な装備を「いらない」とは
云えないだろう・・・などとと考えていたら・・・ん・・・??

じゃ~「ZZは嫌いなのかい、乗れないのかい」と、自分で自分
に突っ込みをいれてしまった!

ほんとに人間とは複雑な生き物だが、あたまを整理して考えると
つくづく人間はバランスの生き物だと理解できる。

体をフルに使って風を浴びながら、自然と一体化する感覚はZZ
もオートバイもおなじだろう!

それにいくら文明が進化し発展しても、自転車は無くならないし、
山登りもするし、トレッキングなんか益々盛んだ。

これは人間が自然界の中で本能的にバランスを取っているのだと
思う・・・・・利便性と不便さの必要性を!

それで思い出したが、三浦雄一郎さんが先日75歳でエベレスト
に再びチャレンジし成功させたことは、これ以上ない励みになる。

70歳を過ぎて2回もエベレスト登頂に成功、1回目の時のコメント
は「人は幾つになっても夢を持つこと、その夢の実現に向かって
努力し続けること、小さな1歩づつの積み重ねが、いつか世界一
の頂上に立てることだということを教わりました・・・・・・」

そして結びに、「人間は年をとっても良いこともある、と実感
出来た瞬間です」とある。

僕はこれを読んだときにつくづくそう思ったし、もの凄く元気を
もらったのを憶えている!

そして2年近く前に、75歳で再びエベレスト登頂に挑戦する旨
のコメントが、新聞に掲載されていた。

小さい大判の切手ほどの記事だったが、この記事の切り抜きを僕
は手帳に入れて持ち歩いている。

・・・全文を紹介しよう!

「75歳の登頂に成功しても、また誰かが私を野り越えていくだ
ろう。ただ、どんな分野であっても、歴史のターニングポイント
を作った者は永久に記憶される。”ザ・ファースト・イズ・フォ
ーエバー”これこそ冒険・探検の世界に身を置く者の最高の栄誉
なのである」とある。

おこがましいが僕も冒険家の端くれだと自負している!

かなり横道にそれてしまったが、引っ越しをしたお陰で懐かしい
資料や思い出がいっぱい出てきた。

次回は、その中から僕の「モノ造り」のベンチャー企業家として
の考え方を、東洋経済のベンチャークラブやビジネスマガジンの
取材を通じて振り返ってみようと思う。

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2008年6月 7日 (土)

車お宝話(58)幻のポケバイ・チッパー

   

(57)で「コメット」のことを書いていたら「ポケバイ」の事
を思いだして、ひとりで懐かしがっていた・・・・・!

余りに遠い昔で、いつ頃だったかハッキリと思い出せなかったが、
2,3歳だった息子をモデルにカタログを作ったのを思い出した。

だから、僕が30歳を少し過ぎた頃だったと思う!

まだ「ポケバイ」と云う名前もなかったと記憶しているが、本当に
に小さなバイクで、その頃まだ小さい小さい息子に丁度いいサイズ
だったからモデルにと・・・・・!

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だから・・・・・「チッパー」と命名した。

これはアメリカン・バイクのチョッパーを捩ったもので、僕の最初
のモノ造りだったと思う。

少し前にも書いた様に、もともと僕はオートバイが大好だったから
40歳位までは必ず1、2台は手元にあった。

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その頃、イタリアから「イタルジェット」というスモールバイクを
何台か仕入れて乗っていたこともある。

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スピードレースの経験はないが、若い頃はレーサー・レプリカ等に
憧れが強く、小回りの利かないセパレート・ハンドルにしがみ付い
て山あいのアスファルト道を走っていた!

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そうそう今思い出したが、もう若くはない頃に、スズキのレーサー
・レプリカで黄色いハーベーカラーのGSX400に一目惚れした。

しかし買ったものの、その辺りをチョロチョロ転がすだけで乗る暇
もなく店の隅に置いてあったのだが・・・!

そんな時、林君(童夢社長)も偶然のようにバイクに凝っていて、
仲間を紹介されて、ツーリングに行こうと云う事に・・・!

その時、「富田は昔バイクでレースに出てたからな~」等と言われ、
思わずプレッシャーをかけられてしまった。

一応レース経験者だけど・・・モトクロスだよ・・・!

根がカッコつけの僕は、いい所を見せようと約束の日が迫ったある日、
ひとりでGSX400に乗って山あいのアスファルト道に向かった!

永く走っていなかった山あいのカーブを徐々にスピードを上げて・・

・・・ところが!

バイクの性能が違うのか、歳を取ったのか、それとも久し振りなのか、
気が付いたときは「田んぼ」の中に・・・やっぱり僕は"田んぼ"か!

幸いバイクは無傷、僕も柔らかい土と草のお陰でカスリ傷一つない。
でも、バイクよりかなり遠くに尻もちを着いていた!

ツーリングの当日、20歳位の可愛い女の子がレーシング・スーツを
着て、僕と同じ黄色のハーベー仕様のGSX250に乗って来ていた。

なにも知らない林君は、彼女に「富田について行けよ!」と云ったが、
可愛い顔した彼女の腕は相当なもので、僕がついて行けなかったよ~。

まさか「先日転んで怖いので・・」とは言えないし・・・・!!

・・・・先日の出来事は、今でも内緒にしてあるが!

僕の高校時代は、モトクロスのことを、"田んぼ"とかスクランブルと
云ったから"やっぱり"の感が有るってことかも知れないけどね!

話を戻そう、この「チッパー」には指示器も、ホーンも付いている。
ホーンではなく自転車のチリリン・ベルだけどね!

区役所に行けば問題なく、立派にナンバープレートがもらえる!

中々良く出来たポケバイで、エンジンは芝刈り機の物で、「ゼノア」
と云うメーカー製だが、最初の頃は苦労した。

この「ゼノア」が何に使うのかと、中々図面を出してくれなかったが、
100台も造ったら、喜んで協力してくれる様になったけど!

ところがある時、思わぬことが起きた!

京都の僕の会社に、突然、東京の原宿署から電話が・・・!

聞けばあの有名な原宿通りで毎夜、この「チッパー」が数十台集まり
レースが行われていると云う!

ところが警察は苦情ではなく、今後も「チッパー」を造り続けるのか?
と丁重に聞いてきた!

とっさに僕は、100台限定ですからもう造りませんよ・・・と云って
しまったが・・・・・

下請けのK君に生産中止のことを話したら、それは困るから後を続け
させて欲しいと・・・・・僕は喜んで了解した!

それが後の「ポケバイ」となるのだ!

K君のお陰で、このポケバイ経験者の子供達から何人ものGPライダー
が誕生し、世界で活躍している。

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2008年6月 4日 (水)

  車お宝話(57)クルマと時代の流れ!

      

6月に入って1日、2日,3日と日経新聞の1面の見出しが、
石油とクルマの記事で3日間も続いた。

人生の半分以上を自動車の世界に身を置いてきた僕としては
気になる記事ばかりだが、同時に時代の大きな変化を感じず
にはいられない。

まず6月1日の見出しは「石油製品アジアに輸出」とある。

要するに国内市場が少子化や省エネ進展によって、販売縮小が
5年も続いていることへの対策だが、成熟した国と発展途上国
の勢いの差を益々感じることに!

2日の見出しは、郵便事業会社「全車両を電気自動車に」と!

今年度から郵便事業会社の所有する全ての自動車を電気自動車
に切り替えて行く、と書いてある。

これを見た瞬間、近々そうなるとは思っていたが"最早来たか"
と戸惑いを感じてしまった。

何かしら僕がクルマの世界から遠のいている間に、どんどんと
周りが変化していく気がする・・・・!

当分、まだまだハイブリッド車が活躍すると思っていただけに、
世界が抱える環境問題の深刻さが伝わってくる。

なんと電気自動車は、CO2が7割も削減できるのだそうだ。
これではハイブリッド車も太刀打ち出来まい!

驚くことに、その台数が2万1千台もあり、8年程でこの台数
の全てが電気自動車になると云うのだから・・・・・

それだけではない、もっと驚いたことには、全国の主な郵便局、
約1千拠点の駐車場に急速充電装置を設置して、やがては一般
の利用者にも開放することを検討するらしい。

この身近に起きる現実が、またまた想像を掻き立てる!

新しい材料が出来れば、それだけチャンスが増えると云う事に
なる。

だから面白いことが出来そうな、そんな予感が・・・!

事柄は違うが、以前に50CCのバイクを使ってコミューターカー
を童夢と開発した経緯がある・・・・・名称は「コメット」だ。

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50CCの一人乗りで屋根付、ドアもあるしバックもできるのだ!

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小さな小さな自動車で、原付免許で乗れるのが売りだった。

苦労の末にやっとナンバー登録し、この小さな自動車を国内で
最初に発表したら、朝日新聞が大きく取り上げてくれた!

そして自動車雑誌の取材で、「コメット」の経済性に挑戦した!

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東京まで、どれ位の時間と、燃料代が掛るかのテストを試みた。

ハッキリした数字は覚えていないが、2千円でお釣りがあった
と記憶している!

比較にはならないが、ハイブリッドよりも、電気自動車よりも、
燃費だけは良かったな~と思う!

檀家回りのお坊さんなど、色々と引き合いがあり,既に数十台の
「コメット」が全国を走っていた。

ところが話題性が大きくなって来ると、大手のスズキ自動車が
同じコンセプトの車を半値以下で売ると発表したのだ!

TOMITA AUTOは85万円で発売していたが、新たに市場参入する
大手自動車メーカーは38万円ほどで売ると云うのだから!

ところがもっと悪い事に、大手メーカーが参入するなら法規を
変更すると警察庁が言い出した。

そして、この小さな50CCの自動車でも普通免許でしか乗れな
い様にしてしまったのだ。

ほとんどの人は知らないだろうが、既に乗っている人のために、
原動機付自転車の免許を学科試験だけで普通免許に取り変えた。

ところが面白いことに、免許証には50CC以下の原付しか乗れ
ないことが特記事項として記載してある!

よほど困った末の処置なのだろうが・・・!

この時も、朝日新聞と朝日放送テレビが相当味方してくれたが、
何も起こらず、こちらは泣き寝入りした形になった。

トミーカイラZZの時もそうだった・・・突然の運輸省令による
保安基準の変更、そして朝令暮改のごとく、たった半年で元に
戻る保安基準など・・・!

この時も、朝日放送のニュース・ステーションが特番で取り上げ
てくれたが、何事も起こる筈はなかった。

この国で今までと違う事や新しい事をすることが、如何に大変な
ことか、多少は分かって頂けたと思う!

でも振り返って見れば、これと似たような事を他にも沢山したが、
そのどれを取っても「チャレンジ」したからこその出来事なのだ。

・・・・・今思えば精一杯生きた事の証だと!

そうそう、6月3日の新聞の見出しがもう1つ残っていた!

その新聞には「自動車輸出23年ぶり最高」とある。
国内市場の低迷を、購買力を増した資源国が補う形で輸出が伸び
ている。

中東やロシア、中南米が大幅に市場拡大する中で、今後の日本は
どうなってしまうのだろう!

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