« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月

2008年1月30日 (水)

  クルマお宝話(22)クルマの価値とは!

お宝話(18)に書いたように、また色々なクルマの話を書こうと,
なにげなくブログを振り返って見て、はたと気が付いた!

今まで扱ったクルマの中で、現在とんでもない資産価値になっている
数の多さに改めて気が付き唖然とした!

お宝話(18)のデイトナ・コブラや(9)のポルシェ904GTS
など億単位の価値になっている事に驚いてしまう!

(17)のランボルギーニ・イオタ、(15)のパンテラGT4だって
それに近い価値になっているし、まだまだ書いていないのも沢山あるが、
その中のフェラーリ・デイトナやGTCもそんな価値なのだ!

(15)のランボルギーニ・クンタックを初め多くのスーパーカー達も、
今や軒並み当時と遜色ない価値だ!

中には遥かに当時を凌ぐ価値になっているクルマもあるという事は、
もし、今まで持ち続けている人がいるとしたら・・・・・
うらやましい限りである。・・・・・早いはなしタダ乗り以上だ!

でも、好きなクルマを手に入れて、その上価値が上がるのもいいけど、
好きなクルマを手に入れるために仕事を頑張る方がもっといいと思う。
僕は間違いなくこのタイプに属する!

そんな訳で、その頃好きだったクルマを色々と思い巡らしてみたら、
独立したてのころはポルシェとジャガーが好きだったな~と!

ジャガーと言えば、やはりXK140ドロップヘッドクーペが、
真っ先に頭に浮かんだ。

1301

「やはり」と書いたのはこのクルマを単に好きだから言うのではない!
ものすごく貴重で苦い経験をさせてくれたクルマなのだ。

このクルマは23歳で独立して悩みに悩んで最初に手に入れた高級車で、
それこそ「清水の舞台から飛び降りて」しまった!

手に入れたこのジャガーは、特にワイアーホイールになっていることが
希少で、後に知ったことだが、当時日本に一台だったらしい!

1302

その頃のある日・・・・・!

僕の留守中に、展示してあったこのジャガーXK140を近所の若者が、
勝手に持ち出したところから悲劇は始まる。

当時、一人しか居なかった新人社員に、事件の元凶の近所の若者が

社長の僕が了承しているからと、嘘をついて展示場から引っ張り出して

乗って行ってしまった!

それだけの事なら大した問題ではないのだが・・・・・

その新入社員が、出先から戻った僕を見つけて事務所から飛び出してきた!

興奮して真っ赤な顔で「すぐに西陣警察署に行ってください」と言う。
とっさに僕が大きな声で「何があったんヤッ」と聞く!

会社のほんのすぐ傍に北野神社があり、その真向かいが西陣警察署で、
交差点になっている。

その交差点で、このジャガーが四重衝突をして大勢のケガ人を出して
いる・・・・・だからすぐに警察に行ってくれと言うのだ!

ここからが問題なのだが、車検も保険も切れていている状態だけど
ナンバー・プレートは付いている!

詳しい人なら既にお分かりだろう。
こんな事はよくあることで、仮ナンバーで走れば問題はないのだが!

新人社員と近所の若者の素人が二人!・・・だから間違いが起きた。
二人ともナンバープレートが付いているから乗れると思ったのだろう

だが自賠責にも任意保険にも入っていない状態だ。
その上、運転していた近所の若者はただ乗って見たかっただけの事で、
支払能力など全くない!

もっと頭の痛い問題が起きたのは、運転者である近所の若者が、

家を捨てて逃げてしまい行方不明で警察の捜査対象となってしまった!

結果から言うと「五人のケガ人の治療費をクルマの持ち主が支払え」
即ち、所有者責任と言うことだ!

「国」から支払命令の「はがき」が来た!
・・・・・・・こちらにも言い分がある!

クルマを盗まれ、車が全損になり大損をして、
その上自分が起こした事故でもないのにケガ人の補償をしろと言う!

電話ではラチが明かないので運輸省のある霞ヶ関の庁舎に出向いた!

「国」としては法律である所有者責任を追求してくる。

クルマを盗まれた事は別の問題で所有者だからの一点張り!
とうとう雷を落としたら・・・・・最初は毎月千円でいいからと!
結局十五年かかって全額「国」に支払った。

まだある、事故車のジャガーを親しくしていたクラシックカー屋に
売った時のこと。

最初に書いたワイヤーホイールが事故現場で一本盗まれていた。
だから値打ちがないからと、さんざんケチをつけられて仕方なく、
たった二万円で引き渡した!

一年程して事故車のジャガーが綺麗に直って雑誌の広告に売りに出た。
そのクラシックカー屋の広告に「日本に1台・・・」と書くいて、
とんでもない値段を付けているのには驚いた!

そこまで値打ちのあるクルマとは知らなかった僕が無知でバカだった。

事故も霞ヶ関もクラシックカー屋も・・・み~んな怖い!怖い!

こんな話し面白いのかどうか分からないから、よければコメントください!
その他の事でもなんでもいいですから宜しく。

| | コメント (4)

2008年1月26日 (土)

 クルマお宝話(21)AMGとTOMMYKAIRA

  

結局AMGとの総代理店契約は以前にも書いた髙島屋外国輸入部を
通じて数ヵ月後に完了した。

サンプルとしてメルセデスのSLとSECをベースにした
AMGを2台、足回りやエンジンのチューニング・パーツを
数台分オーダーした。

1261 1262 1263 

やはり髙島屋という大手の信用と、ジャンカルロ・ペリーニの顔か!
その頃のトミタオートは零細企業。
よく髙島屋が協力してくれたと思う!

それまで髙島屋を通じて、お宝話(10)のアルピーヌや、
特殊なメルセデスなどをコツコツと輸入して来た実績が
ここで役に立ったのだろう。

今回もまた友人に世話になり助けられたことが大きい!

お宝話を最初から読んでいる人はお分かりだろうが、
いつも節目、節目で、友人に助けられているとつくづく思う!
やはり何かを成し遂げるには、人の協力なくしては出来ないのだろう。

さてAMGの展開だが、日本での「AMGブランド」の
知名度はゼロ!

サンプル車が手元に届くのを待って、
まずは専門誌にプレスリリースを送り、
自社の広告にAMGのブランドロゴとクルマの
写真を掲載して様子を見た。1264 1265

以外にもすぐに反響が出たのは専門誌の取材依頼だった!

それまでランボルギーニやフェラーリなどのスーパーカーや、
アルピーヌA110やシムカらりー3など、
めずらしい車の、取材の手ごたえは経験しているが!

なぜか知名度がほぼゼロの「AMG」に取材が殺到した。

多分、僕と同じ様に実用性のない見せるだけのスーパーカーから、
現実的でステータス性のあるクルマを待ち望んでいたのだろう。

「この答えは今のAMGの発展をみれば明らかだが!」

そこにタイミングよくプレスリリースが舞い込んだということか!

だけどサンプルカーは一台しかない!

それでも一社でも多く取材記事を掲載して欲しいと、
目一杯、タイトな貸し出しスケジュールをやり繰りをした。
この時ほど神経を使った経験はそれまでなかったと思う!

この経験が後のトミーカイラM30の発表時に大きく役に立った!

「トミーカイラ」ブランドを一躍有名にしてくれた、
このM30の発表の時もM30が一台、M20が一台と
計2台しかなかった。

当然のように、M30に取材の依頼が殺到した!

たった1台のM30でテレビや一般誌を含めた30余りの
取材をこなすのだ。

タイトなスケジュールを調整するだけでも大変なのに、
もし取材の途中でクラッシュしたりエンジンが壊れたりしたら
取り返しのつかない事になる。・・・・・一貫の終わりだ!

まず頭をよぎったのは、トップニュースで紙面を空けて、
待ってくれている雑誌に穴が開く!

同時に社運を賭けた「トミーカイラ」のブランドは一瞬にして
地に落ちる。

当然、会社も信用をなくすことになり万事休すとなる!

雑誌社の皆さんに正直にこのことを訴えてお願いした。

「大変申し訳ないが零細企業のチャレンジを支援ください」と!
取材をするプロとしてこんな経験はそれまでなかっただろう!

たった1台の広報車しかない小さな自動車メーカーに慈悲とも

いえる程の協力と応援をしてくれた。

これほど突っ走れたのは、この時の「AMG]の経験があったからで、
やはり何事も「一朝一夕」にはならない!

遠回りに思える事や、いろんな経験が積み重さなって出来たのだろう!

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

| | コメント (1)

2008年1月23日 (水)

 お宝話(20)AMG社に契約に行く!

    

お宝話(19)で「AMG」のことは後日にと書いたが、

話しの流れから言って、引き続きの方が賢明と思うので書いてしまう!

最初にAMGのことを知ったのは、確か自動車誌モーターファンの記事で、

成江淳氏の記事だったと記憶している。

当時の僕は、全ての自動車誌に目を通していたので、

この記事がAMGを最初に紹介した記事だと記憶しているのだが!

その記事の写真を見て驚いたのは大好きなメルセデス300SEL6.3の

物々しいレーシングカーの姿・・・ほとんど“ひと目ぼれ”状態だった!

428HPの大馬力でスパ24時間耐久レース2位・・・と記してあった。

それでなくとも300SEL6.3の、頭がうしろに置いて行かれるほどの

トンデモナイ加速にシビレていたのに!

参った、参った!

最高級セダンとして300SEとSELがあり、

この純然たるセダンに6300ccもの大排気量エンジンを積んだモデルが

300SEL6.3である。

このエンジンはVIP仕様の600プルマンリムジン用のものでアルミブロック、

250HPで0~100kmが6.5秒、当時ポルシェ911より早いと言われた。

当時のクルマはメルセデスといえども車両重量が軽いのでこの馬力で充分なのだ!

最新のAMGモデルが過給機を止めて、NAで6300ccになったのは、

この300SEL6.3のDNAをCIとして確立するのが目的なのだろう!

その頃の僕は、自分のメルセデス350SLにモモのステアリングを付けて、

メッシュのホイールにワイドなタイヤ、タコ足のマニホールドを自製して取付け

得意げに乗り廻していた。

このタコ足の効果は抜群で、レスポンスと加速は著しく向上したと感じた!

その頃京都に、親しい自動車評論家の面々がよく取材に来てくれた。

僕の改造してある350SLを見て、その評論家の面々が口を揃えて

「ベンツはノーマルで乗るクルマだと思うけどな~」・・・・・!

見たいなことを言っていた時代である。

だからこの「AMG」の取材記事は僕の強い味方となったし、

大きな自信も与えてくれたが、同時に世界の広さと凄さも教えてくれた!

「成江淳」はペンネームである!本来はメルセデスの輸入元である

ウエスタン自動車の人で、当時重要な役職に就かれていた方だった。

そこで僕は、取材記事を書いた評論家の成江淳氏にすぐに電話をした!

以前に取材を通して面識があったので、快く話を聞かせてもらったが、

聞けば聞くほど自分の目で確かめたくなり、一刻も早く西ドイツにある

AMG社に行って見たくなった!

すぐに「AMG」に行く為の準備に取り掛かった!

計画としては、近々にルマン24時間レースに童夢チームの一員として

行くことになっていたので、ルマンの帰りに西ドイツに行く事にした。

ロスに住んでいる友人で、当時、童夢USAの社長も兼ねていた金古氏に

「AMG」とのコンタクトをお願いした。

彼は本当に親しい友人で、後にトミーカイラUSAもお願いしたことがある。

今もロスに行けば必ず会う間柄だ!

彼はすぐに欧州で著名なジャーナリストのジャンカルロ・ペリーニ氏に

連絡を取ってくれ「AMG」とのコンタクトを取ってくれた。

そして2ヶ月後のルマン24時間レースの帰りに行く事が決まった!

初対面のペリーニ氏がフランクフルトの空港に金古氏と僕を迎えに

来てくれた時のこと!

優しそうなヒゲズラの紳士で、見慣れないAUDIに乗って空港に来ていた。

金古氏は親しそうに英語でペリーニと再会の儀式を済ますと、

僕に「このクルマは発表前の新型AUDIで路上テストをしている」と言った!

瞬時にAUDIがクアトロの名称で四駆を出すと書いてあった雑誌の記事を

思い出した。

AUDIのリアシートに座ると「シートベルトはした方がいいよ」と言う。

金古氏の顔を見て「飛ばす気かな~」って聞くと、「多分ね」と!

案の定!・・・まるでラリードライバー見たいなペースですっ飛んで行く!

このクルマのトラクションとグリップの良さがかすかに記憶に残っている。

前置きが長くなり過ぎた!・・・AMG社に訪問しよう。

1231

その時の写真の端に81と記号が入っているので間違いなく26年前の写真だ。

僕が36才のとき・・・・・それにしても若いな~!

それに派手なルイヴィトンのアタッシュケース!・・・

レカロの応接セットに座った僕の横にシリンダーヘッドがあるのがナンとも

「AMG」らしい!

1232

契約の交渉は僕が日本語で金古氏に、それを英語でペリーニ氏に伝え、

それをドイツ語でペリーニ氏がAMGの社長アウヒレヒト氏に言う!

(写真右手前から僕、金古、ペリーニの順、写真左がアウヒレヒト)

なにせ26年もまえの話だから細かくは覚えていないが、

契約の詳細は後日、大手の商社を入れてやり取りをしたと思う!

アウヒレヒト氏は地味な感じの少し頑固な工場の親父って感じで、

僕がおみやげに扇子を渡したら極東の端の日本などあまり知らない

らしく珍しがっていろいろ聞いていたように覚えている。

1233

狭くはないがプレハブの工場を隅から隅まで案内してくれた。

1235

その当時のお得意様はアラブと西ドイツが中心だと話してくれた!

1237

1236

1234

帰りは皆でのんびりとラインの川下りをして帰ったようにも記憶しているし、

友達とメルセデス280SEの新車のレンタカーでアウトバーンを旅した

ようにも憶えているのだが!

そんな記憶も、ままならないほど遠い昔の話だ!

| | コメント (0)

2008年1月19日 (土)

クルマお宝話(19)「チューニングカー」の章

やっとチューニングカーの章に辿り着いた感じでなぜか嬉しい!
今日は、当時を思い出して書いてみることにしよう!

そもそも、最初にチューニングカーを扱い出したのは
「AMG」ブランドで、当時の自社のチューニング・レベルは、
パーツのみを輸入して、組み付けると言った、
まだまだ実験的なものだった。

その頃のAMG社のことは、後日詳細に写真入りで紹介する積もりだが、
社長のアウフレフトに会うために訪れたAMG社は、
ほんとに質素な工場で、
ある意味、若かった僕に勇気とチャンスを与えてくれた。

もし、訪れたAMG社が現在のように立派な工場と設備を誇っていたなら、
多分、チューニングカーを造る会社を興そうなどとは思わなかっただろう。

お宝話(10)の文中で書いたアルピーヌA108に乗って山に行き、
「こんなんやったら造れる」と思ったのと寸分、変わらない考え方だが、
今考えると、なんと怖いもの知らずの「あつかましい」若者だったのか!

その怖いもの知らずの考えで、躊躇なく「将来構想」を描いた!
そして続く「HARTGE」ブランドでは、その将来の構想に沿って、
解良喜久雄も参加した中で、「株式会社ハルトゲジャパン」を立ち上げた。

誰も知らない、僕も知らなかったブランド「HARTGE」!
そのブランド発表会は「ハルトゲの日」と称して無数の旗をたて、
当時の社会的現象ともなっていたディスコ「マハラジャ」を舞台とした。

1191_2

同時にレース参戦の発表会も行い、華やかに開催した。

1194_2

当然、BMW635CSIベースのレーシングカー(お宝話1参照)

1193_2

も展示して何から何までド派手にやったから、
業界外の有名人や報道のテレビ局まで来てくれ、瞬時に有名になった!

「この頃かな~、BMW320が六本木のカローラって言われたのは!」
そんな時にBMWベースのチューンド・ハルトゲが「マハラジャ」に
常時、展示されていたのだから有名になっても不思議はない!

1192_3

その頃には「AMG」ブランドも結構、有名になっていたから、
この「HARTGE」ブランドの仕掛けも上手く行ったのだろう!

僕がなぜこのように「ブランド」にこだわるのかと言えば、
「消費者相手のビジネスに於いてブランドは最大の資産である!」
と思っていたからだ。

この言葉は、独立後5年位たった頃から強く感じるようになって、
手帳に書いた一節で、今も強く感じているし間違ってはいないと思う。
今でも講演の大きな柱のひとつだ。

ブランド力さえあれば小さい企業でも大企業に太刀打ちできる!
その頃、ブランドの仕掛け人としての地位が確立されつつあった。
取材も多く色々な話が来たが、業界誌や一般誌の取材依頼だけでなく、
自動車メーカーやファション業界からの提携話が来るようになった!

だが順風満帆とは行かなかった!

「AMG」ブランドもそうだが、「HARTGE」ブランドも自分が創った
ブランドではない!

いくら努力して有名にしても・・いや!・・・有名になればなるほど、
利権を求めて他社が参入し争いが起きて来る。

そうして追い詰められた状況の中で決断する時が来た!

オリジナル・ブランド「トミーカイラ」のスタート。

もともとオリジナル・ブランドは国産車をベース車として、
チューニングカー製作をスタートさせようと決めていたのだが!
ベースとなる国産車のレベルが、「AMG」のメルセデスとまでは
行かないまでも「土俵の外」では困る!

今後、間違いなく発展するだろう韓国やタイのことを考えて、
それに将来的には確実に中国も成長すると!
だから誇張ではなく、国際競争力が必要だと本気で考えていた。

現にそれから10年と経たない内に、是非にと韓国の貿易商から話が来た。
大企業の紹介だからと、韓国の輸入車ショーに出展したが!
商習慣の違いなど複雑な問題が発生し大損した。

これは時期が早かったのだろう!・・・・・?

だから「トミーカイラ」ブランドは、本格的なクルマ造りを目指す
チューニングカー・コンストラクターとしてスタートした。

文章として書くのは簡単だが、この決断には多くの人の理解と協力を
必要とした。

それまで輸入車の展示販売とアフターサービスをメインとしていた会社が、
いきなり展示場をブッ壊し、そこに「夢工場」と称した建物をオッ建てて、
自社で製造したトミーカイラのチューニングカーをメインに販売する。

Yumekojyo

いくら自分の「夢」が昔から「工場」を建てる事とは言え、
もはや自分だけでなく、多くの人を巻き込むことになる!
この方向転換とも言える決断は会社にとっても、
また会社に従事する人にとっても大変な出来事だった!

その上、「チューニングカー」など自動車業界にいる人でさえ、
殆ど知らない程で、一般的にはイメ-ジの良くない改造車と思われていた。

それでも将来のことを随分以前から模索して決めたことだった。
今思っても随分と思い切った決断をしたものだ!

そのころの僕は、西ドイツがTUFの基準によってチューニングカーが
公然と認知されている現状が羨ましかった。

だから報道発表会や取材のたびに、改造車=悪ではなく、
「チューニングカーと覚えてください!」と必死に連呼していた!

これは今日、チューニングカーが社会的に認知される礎になったと思う!

| | コメント (2)

2008年1月17日 (木)

クルマお宝話(18) デイトナ・コブラ

次回はなんとかチューニングカーの章にステップしようと考えて
いるのだが、中々そうは行かないので困っている!
だって、次々と頭に浮かぶクルマ達をほったらかしにはできない。

みんな平等に紹介してやりたい!

ミニも2CVもキャトルも、それにモーガンもパンサーもある。
スーパーカーだってまだまだある、ランチア・ストラトスもあるし、
ランボルギーニやフェラ-リで余り知られていないクルマもある。

それに、その頃のアメ車には結構、個性的なクルマが多い!

などと思って、ほざいているから何時までたっても次ぎの章に

進めないので僕は考えた!

そもそも全面的にチューニングカーだけを扱う会社になったのは、
展示場をぶっ壊して「夢工場」をおっ建ててからだ!
このことは次回に、めずらしく真面目に経緯などを詳しく書く積もりだ!

僕が41才の厄年に「夢工場」を建てるまで、
20年近くは、いつも数十台の個性的なクルマ達の展示場だった。
そのいろんなクルマの「安住の地」は京都の金閣寺のすぐ側にあった!
今まで、お宝話で紹介した写真にも何枚か含まれている。

「夢工場」になってから来られた人には想像できないだろうけど!
結構広くて、希少なクルマが色々あったから来た人は楽しかったと思う。

前置きが長くなったが、言いたいことは僕が「41才」になるまでは、
まだまだ色々なクルマを扱っているという事!
だから次ぎの章に進んでも当面はいろんなクルマの事は書けると言う訳!
まぁトミーカイラが始まる迄は「AMG」や「HARTGE」と
平行して楽しいクルマの話しを書いて行きたいと思う!

・・メデタシ、メデタシ。

という訳で、早速ずっと気になっていたクルマを紹介しましょう!
是非とも紹介したいそのクルマはアメリカ製のレーシングカーで、
“デイトナ・コブラ”・・・あの第3回日本グランプリで突然出現した。

1161_2

ドライバーは酒井正氏で、当時の船橋サーキットなどの国内レースで
大活躍した人だ。

もともと手に入れた“コブラ427”が大好きだった僕は、
サーキットではじめて見たデイトナ・コブラに一目ぼれした。

1162_2

このデイトナ・コブラは、
当時、世界の「スポーツカー・レース」でフェラーリ250GT
独壇場となっていた状況の中で
打倒フェラーリとして造られたクルマだ。

1163_3

デイトナの名はフロリダ州、デイトナ・スピードウエイでの活躍で
つけられた名前らしい。

1164_2

デザイナーはピート・ブロックで彼はGMでコーベットにも関わり
シェルビーでも活躍をした。


1165_2

その後、日産のアメリカでのレースも手がけている。
彼とは一度だけダットサン(ニッサン)Zのレースのときに会った
事がある。

そんな事でポルシェ904GTSのとき同様、何とか手に入れたいと
アンテナをめぐらせたが簡単にはいかなかった。
何年もたったある日、突然吉報が舞い込んできた。
そんなこんなで、やっと手に入れたクルマだが、
引取りの時など大変でヤッパリ純粋のレーシングカー!

それこそ街で乗るのは大変だった。
一度雑誌の取材で、酒井正氏と対談!
サーキット走行で助手席に乗った事があるが、
やはりコブラ使いは腕っぷしが強くなければとつくづく思った。

最近の情報だがなんと!オークションでデイトナ・コブラに
2億円近い値段が付いたとか!!

| | コメント (0)

2008年1月11日 (金)

クルマお宝話(17)ランボルギーニ・イオタが燃えた!

  

30年ほども昔々の話!

あのランボルギーニ・イオタ(お宝話14,15の写真)に、

まだ幼い息子を乗せて、京都の紅葉で有名な高尾に紅葉狩りに出かけた。

1111_3

紅葉のシーズンだからかなり道は混んでいたけど、

今のように渋滞とか停滞などの心配がない時代だからイオタで紅葉狩りに

行こうなどと言った選択肢もあったのだと思う!

当時のテレビでスーパーカー・クイズらしき番組があって、

幼い息子がロクに言葉も話せないのに、片言でズバズバ当てるほどの

大のクルマ好き!

親バカも手伝って“ランボルギーニ・イオタ”を引っ張りだしたと言う訳!

きれいに舗装された高尾の山を、前が空いたときだけだがセカンドギアで、

“ガァウォー、ガァウォー”とライオンの雄叫びを挙げながら登っていた!

そんなとき、ルームミラーから見えるいつもの景色に“火”が写った。

「原型となるランボルギーニ・ミウラはミドシップに積んだエンジンが、

ルームミラーを通して見えるのがウリで、後ろの景色などはデザイン

重視のルーバーのすき間から多少見える程度である。

そのミウラのレース仕様のレプリカとしてイオタ(jota)は造られた。

外観も多少変更されているが、エンジンルームではキャブレターの上の

エアー・クリーナーがとり省かれて、筒状のエアーファンネルが奇麗に

12本、6本ずつ並列に連なっている。」

1114_3

そのエアーファンネルとキャブレターの付け根からチョロ、チョロと

小さいが“火”が出ている!

1115_3

僕が座っているシートの真後ろで、50cm程しか離れていない。

もちろん室内とエンジンルームの間に分厚い仕切りはあるが、

とても対岸の火どころではなく、むしろカチカチ山の狸の心境だ。

一瞬“ヒヤッ”としたが、とっさに僕は子供に分からぬように、

何食わぬ顔で道路の脇にイオタを止めて、50mほど後方にあった

茶店に息子を避難させた。

ゆっくりと巨大なリアーカウルを開けたつもりだったが、

大量に下から吸った空気が一瞬にして火を大きくしてしまった。

とっさに着ていたお気に入りの茶色いコートを脱いで火に叩きつけた!

一心不乱に何回も何回もコートを叩きつけてようやく火が小さくなった頃、

右横から「この消火器で!」と大きな声がした。

無我夢中だったのだろう!

気が着けば反対車線は大渋滞!・・その先頭の観光バスの運転手さんが

消火器を窓から突き出して叫んでいる。

僕は「有難う、もう消えました!」と大きな声で言いながら、

内心、消火器なんか使ったらクルマが台無しになると思っていた!

この頃のスポーツカーのほとんどがウエーバーかソレックスで、

特にダウンドラフト型のヤツは良く火を噴いた。

このイオタも多分、低速走行のときのバックファイアーが原因で、

キャブレターから滲んだガソリンに引火したのだと思う。

多少ほっとした気持ちで注意深くエンジンルームを隅から隅まで、

丁寧に見てみたが不思議なほどナンともない!

それどころか、まったく何事もなかったようなエンジンルーム、

綺麗に並んだ12本のエアーファンネルを見ていて拍子抜けした。

その上、お気に入りの細身の茶色のコートも少し汚れた程度で済んだ。

それでも息子が戻ってきて「わぁ、髪の毛が!」って言われて、

初めて前髪が焦げているのに気が着き、現実に引き戻された。

めでたし、めでたし、だがもし気が着くのがもう少し遅ければ、

どうなっていたことやらと思うと「ゾッ」とする。

それで思い出したが、その当時、笑えるようで笑えない話がある。

プロ・ゴルファーで優勝すれば必ずスーパーカーを乗り換えると言う

有名なトップ・プロがいた。

どこに行くのもスーパーカーで行くらしい!

あるとき京都の東大路通りを、カチカチ山の狸状態で、

後ろから火けむりを上げながらフェラーリ365BBが走っていた。

1112_2

1113_2

周りの人が指をさして騒ぐが、本人は全く気にせずに走っていたと言う。

たぶん自分が有名だから騒いでいるとでも思っていたのだろう!

気が着いたときには手がつけられず、結局全損になったとか!

この手の話をもう一つ、東京からの帰り東名高速を走っていた時、

急に名古屋の手前で大渋滞になった。

暫くすると消防車や救急車がサイレンをならして側道を走って行く。

一緒に乗っていた友人に「絶対スーパーカーが燃えているよ!」と

“当てずっぽう”に僕が言った!

わずか数キロを二時間以上も掛かって現場に近づくと“びっくり”、

本当にクンタックが丸焼けの鉄板だけになっていた。

| | コメント (2)

2008年1月 8日 (火)

クルマお宝話 (16) スーパーカー Ⅲ

 明けましておめでとうございます!

今年もお宝話などドンドン書き進めて行くつもりですが、

まだ序の口なのに書くことが次々とあたまに巡って来て、

あのクルマもある、このクルマの事も書かないと片手落ち

になる、などと勝手に悩んで結局みんな書いてしまうから、

いったい何時になったら次の章にたどり着くのだろう!

まぁそんな年明けですが、くれぐれも末永く見捨てる事なく

お付き合いの程、よろしくお願い申しあげます!

     

    クルマお宝話 (16) スーパーカー Ⅲ

今回はスーパーカーでの失敗談をお話しましょう。

今回もパンテーラの話から始めよう!

パンテーラは中々面白いクルマで、当時のデトマソ社には勢いがあった。

123

1970年のスタートで94年まで20年以上も基本的なデザインを

変えないで通し、ヨーロッパやアメリカで結構人気があった。

これは当時、ヨーロッパのスーパーカーが余りにも高価で、

実用性に乏しく、その上メンテナンスにかなりの神経を使う代物だった。

そこでパンテ-ラはイタリア・デザインのボディとシャシーに、

アメ車のエンジンを組み合わせてメンテナンスのイージーさと実用性、

妥当な価格付けで成功した。

この考え方は、後にトミーカイラZZを造るときの参考になった。

さて失敗談だが!

その頃、私的にも親しくしていたS氏にパンテーラの注文を貰っていた。

S氏は京都の伝統的な着物デザイナーの第一人者で、大のクルマ好きだ!

クルマの調子が悪ければ仕事が手につかない程で、平均して3ヶ月で

次に乗り換えるクルマのことを考える。

常に頭の中の半分ぐらいは、クルマが占拠していると聞いたことがある!

そのS氏が首を長くして待ったパンテーラがトミタオートに届く日、

S氏は早めに来社してパンテーラの到着を待つ!

失敗の原因はこのクルマの微妙な「色」だ!

デザイナーのS氏は職業柄「色」に対する思い入れが強い!

“ちゃち“な「カタログ」のカラー見本にはグリーンと書いてあるが、

なんとも変な色に写っている。

当時、まだ日本に数台しかないクルマなので現車での確認が出来ない。

 

僕に聞かれても、その色の現車を見た事がないから応えようがない。

現在なら考えられない事だが、当時は希少なクルマを売る方にも、

買う方にもリスクがつきまとうのが常だった。          

特に部品の調達やメンテナンスの資料がかなり不足していた。

その日の明るいうちに現車で色を確認したい。

なのにパンテーラを積んだ積載車の到着がかなり遅れている!

S氏には到着次第、電話を入れるからと一旦引き取ってもらった。

もんもんとして待ったが、結局着いたときには日が落ちていた。

積載車に積まれている現車を見て「う~ん」とため息が出た!

S氏が一番恐れていた色に見えてしまう。

もう薄暗い!・・・ハッキリと見えない。

とっさに頭に浮かんだのは、自然光で明るいゴルフ練習場!

積載車から降りたばかりのパンテーラに乗り込み練習場に急いだ。

まだ路面電車が碁盤の目のように京都の街を走っていた頃の話。

会社の前をUターンして西大路通りを金閣寺に向かって走っていた時、

一台の車が左の脇道からフラフラと線路を横切ろうと出て来た。

そして何故か線路の上で一旦停止した!

「万事休す」・・・・・フルブレーキ!

レールの上を走っていたパンテーラはスケートリンクの如き滑走で、

一直線に・・・“ドッカーン”・・・相手の車は「く」の字に!

だが意外にもパンテーラの外傷は小さかった・・・強い!

でも優しいS氏は、元通りに直してくれればいいよと!

でもまだ続きがある!

結局、元通りに直って数日後、こんどはS氏が凍結路面で全損!

まるでスピード・スケート用のクルマみたいなパンテーラだった。

当然、責任を感じた僕はすぐにオレンジのパンテーラを確保して

“めでたし、めでたし”・・・このパンテーラはお宝話の(9)に!

今ならタイアの性能も違うし路面も違う、それにABSも当たり前、

そんな古き良き時代でしか味わえない、心温まるお話でしょう!

| | コメント (2)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »