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2007年11月

2007年11月30日 (金)

クルマお宝話(7)

Super Seven

僕は仕事があるので、朝一番の新幹線で京都に帰った。
スーパー7は林君(童夢社長)が乗って
今日中に京都に着くだろう!

ロータスが大好きで、詳しい彼のことだから安心だ。
多分、夕方には着くだろう。

いつもの様にバタバタと仕事をし終えた頃、
林君から電話が掛かった!

「もしもし、何処や~?」と僕!
「まだ静岡や、今日はここで泊まる!」
「え!クルマ調子悪い?」
「違う、違う!風が凄くてまともに走れへん」と林君が!

多分、暑い盛りをとうにすぎて、少し肌寒い季節になって
いたと思う。

お飾りのソフトトップだけで、サイドウインドウは無し、
早く走れば冷たい風が、方々から体中に入って来る。
ゆっくり走れば排ガスが巻き込んで窒息しそう!と林君。

super 7_cockpit

仕方がないから東名の川崎で降りて、
ジャンパーとゴーグルとガムテープをやっと見つけて、
首筋とか、風の入る隙間に、ガムテープを張りながら、
やっとのことで静岡にたどり着いた、とのことだった。

今と違って量販店などない時代で、
ヘルメットを隋分探したけど見つからなかったそうだ。
クルマだって今の感覚とは隋分と違う。

「そうか~大変やったんや、すまん、すまん!」

とっさに僕は受話器に向かって言った。
「好きなクルマあったらリクエストして!」
「明日、そのクルマで名古屋まで迎えにいくよ!」

そこでクルマをチェンジして、
そこからは自分で「セブン」を運転して帰るからと伝えた。

と、言うことで彼のリクエスト「BMW2002tii」に乗って
次の日、意気揚々名古屋に向かった。

スーパー7とは正反対で、そのころ誰もが憧れた、
正統派ツーリングカーが「BMW2002tii」だった。

反対に僕は林君には悪いけど、
それほど大変なスーパー7に挑戦したくなっていた。

目立つクルマが2台、約束した場所ですぐに会えた。

だがその時の彼の、とんでもなくもの凄い格好を見て
ビックリした!

長い髪がムチ状態になるからと、
髪の毛をガムテープで止め、すきま風が入らないように
首筋と両手首にもガムテープがグルグル巻きに!

それを見ていかに大変だったか、すぐに理解できた。
ありがとう ご苦労さまでした。

super 7 engine

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2007年11月28日 (水)

奇跡の杖(4)

奇跡の杖

想像は全てを創るエネルギー

私のように、良くない環境で、やる気もなかった少年が、
今までの自分をリセットし、変身していくさまはなんとも痛快である。

マイナスなことは、プラスへの転換のステップだと思う。

まともな就職ができないというマイナスの境遇が、
二十三歳という若さで、大好きな車の会社を設立する
という、プラスの境遇へと置き換わったのだ。

もし有利な就職ができていれば、おそらくは辞めずに
勤めていたことだろう・・・。

しかし、好きな車に触れていたかどうかは分からず、
この素晴らしい自動車メーカーの社長経験も知らないまま、
全ては今と違った人生になっていたはずだ。
満たされた<環境には、実は想像力を乏しくしてしまうおそれが
あると意識しておくことが大切である。

想像力は、人間のみが持つ、最大かつ最高のエネルギー。
地球にある自然が創り出したもの以外は、その全て人間が持つ
想像力によって、創られたもの以外は一切ない。
車も家もビルも、電話も電気も、トイレもトイレットペーパーも・・・

だから、人間にとって想像力はもっとも高貴で大切なものであり、
この上なく素晴らしいものなのである。
想像力が、文明や経済や文化、そして地球上の全てを発展させ、
一方で、地球環境を破壊している現状には、ことのほか悲しみを感じる。

今後ますます、心を清く正しくして、美しく想像することが人間に
求められ、ますます重要なことになっていくに違いない。人生を
素晴らしいものにするもしないも、想像力の正しい使い方が最も
重要だといえる。

だから今、つまらないと感じている人にも、チャンスは無限に広がっている。

奇跡の杖

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2007年11月27日 (火)

クルマお宝話(6)

ポルシェ911

ポルシェ911Sは本当に高いアベレージで走れる
マシン
だったが、
静かで、疲れずに長距離を早く走って帰れた
のは以外にもアルファロメオ1300Jでだった。

チューニングレベルが1600GTより高く、
回転の上がりがマニア向きで、
FRらしい抜群の高速走行性だったと記憶してる。

多分この頃から、チューニングに興味を持ち始めた様に思う。
小さな排気量で大きな排気量に勝つマジックに!

でも早いクルマばかりではない。

まったく違った話をひとつ!

東京にも慣れ、親しい同業の友人も何人か出来た頃、
みんな僕が特殊なクルマばかり探すので、
そんな情報があれば教えてくれる様になった。

ある時、自宅に食事にさそわれ話が盛り上がって、
変わったクルマの話になった時、

「そうそう、いまロータス・スーパー7を預かってる!」
って話になった。
「エ、どこにあるの!」
って聞くと自宅のガレージにあると言う。
「すぐに見せてよ!」・・・・・ほんとにあった!

座って見ると極端に位置が低い、
「このまま地面でタバコ消せるね!」
欲しい!・・・・・もう降りる気はない。

座ったままで駄々っ子みたいに、
預かってるだけだから、
と言うのを頼み込んで強引に手に入れた。
ほんとにそのまま出発した、京都に向けて!

今ではめったにない本物のスーパー7。
まだケーターハムは無かったと思うが?

夜の街をスーパー7で東名高速に向かう!
スーツ姿のままで!

まだ9時過ぎだから、飛ばせば夜中の2時ぐらいには
京都に着ける、と思った瞬間!
止まった、スーパー7のエンジンが!

六本木通りで西麻布の近くと記憶してるが!

スーツ姿でボンネットを開けて覗きこんでいると、
後ろにロールスロイス・クラウドⅡが止まった!

ロールスロイス・クラウドⅡ

「僕の修理工場が近くにあるから!」
「このクルマなら大丈夫だよ」って、有り難い声!

「有難うございます」と言いながら薄暗い道路で、
目を凝らして顔を見たら、見たことのある顔!

夏木陽介さんだった。

大のクルマ好きで、イギリス車がとくに好きな事も
何かの本で読んで知っていたが、
まさか、僕がイギリス車でお世話になるとは!

その後20年ほどしてトムスの舘君〈会長)の紹介で
再会してこの時の話で盛りあがった。

工場は六本木の交差点を東京タワーの方へ
少し入ったところの路地にあった。

工場でメカの人達も一緒にクルマ談義をして、
僕が京都までこのクルマに乗って帰ると言うと
「え、ホントに」って、びっくりされてしまった。
多分、この計画はイギリス車に詳しい人には
とんでもない事だったのだろう!

重々お礼を言って、明日取りに来る約束をしてから
その頃、東京によく来ていた林君に電話をしたら、
「面白い、スーパー7は俺が乗って帰っる!」って
ことになり、じゃーよろしく!って言ったけど、
さっきの工場の人達の言葉が頭に浮かんだ!

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2007年11月23日 (金)

クルマお宝話(5)

この頃、東京で仕入れて東名高速で京都まで走った
回数は100回を超えると思う。

その中でも,特に印象に残っているクルマの話をしよう!

その頃の僕にとって、東京に行くことはクルマの
お宝探しの旅で、楽しくて仕方がなかった。

当然、行きは業者から注文を受けた国産車に乗って
東京に行き、頼んで於いたお気に入りのクルマで、
昼食だけ取ってトンボ帰りが当たり前で、
「しんどい」なんて思ったことなかった。

たまに一泊して、お宝を探すこともあったが、
とにかくクルマに一刻も早く乗りたくて、
乗りたくて、早く帰りたかった。

最初の頃の思いでは、やはりポルシェだが、
何故か911より大好きな356と同じエンジンの
912に魅力を感じた。

憧れの912が手に入り、いよいよ東名高速へ!
当時ほとんど見ることなどない、
911のボデーに乗って見ると、
今まで何台か乗ったことのある356とは随分違う。

新しいポルシェに乗ってる、って感じでグルルルルと
静かに走る。
今の感覚で言うとスバル・レガシーに似てると思う。

静かでフィット感があり、まさにポルシェを着る感じで、
京都に着いても余り疲れなかったと記憶している。

こうなると断然、次は911Sにどうしても乗りたくなり、
確か69年の2リッター911Sを至急に探したと思う。

京都まで東名を走ったが、形は同じなのに
まったく違うクルマで、今までの、「ポルシェを着る」
感じのユッタリとした味わいを楽しむ雰囲気から
一変して、まるで当時のレーシングカーの如き
シャンシャン、シャンシャンとメカニカル・ノイズが
うるさいぐらいに脳を刺激する!

今まで乗ったことのない感覚で興奮し、
気がつけばとんでもなく早く京都に着いていた。

ずっと後の話になるが、今では伝説になっている
73年のカレラRS・2.7など何台も入庫したが、
特に印象に残っているのは2.9にボア・アップした
カレラRSで、とてつもなく早かった。
Rs

これを買ったお客さんは東京まで毎週、
3時間ちよっとで行き来していた。
その代わり、ブレーキパットは3ヶ月で
換えていたけど!

詳しくは後に書くつもりだが、ポルシェ好きが昂じて
とうとう憧れの「904GTS」を手に入れた。

第2回 日本グランプリであのスカイラインGTと
死闘を演じた伝説の「904GTS」そのものを!

スカイラインGTは生沢徹氏(当時、ニッサン・ワークス)
ポルシェ904は式場壮吉氏(当時、プライベート)で、
グランプリ当時の僕にとって、その人も、クルマも、
本でしか見たことのないスーパースター達だった。

後に、そのスカイラインでトミーカイラがDEBUTする
ことになるなど、この時は知る由もない。

Porsche911

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2007年11月21日 (水)

奇跡の杖(3)

奇跡の杖

車との出会い、そして独立

中学三年になったとき、私の住む京都に初めて
ミニカーの室内サーキットができた。そこで見た
幻のスーパーカー達。寝ては夢見、起きてはうつつ
幻で、強烈に潜在意識にインプットされることに。

この想いこそが、人生の半分を決定付ける事に
なるのだ。十八歳の時、就職を希望するが、両親が
ないがゆえに、すべてダメ。悔し涙が・・・。

それから、不利な条件で、どうにかこうにか自動車
ディーラーに勤める。しかし断然安い給与。反面、
条件の良い社員連中は、決められた仕事を淡々と
こなすだけで務まった時代である。

自分の車への情熱、技術力、知識、能力のいずれを
比較してみても、はるかに高いと見て取った私は、
潜在意識か※アラヤ識、思い続けてきた自動車の
販売会社を、二十三歳の時に設立独立する。

それからも不思議なことが続く。保証人のない身の上
から、当時の銀行などはみな門前払いだが、なんと
店舗の目の前に国金(国民生活金融公庫)が。

足しげく通い、とうとう六十万円を借り出し、わずかな
手持ちと合わせて開業資金とする。

その後、三十五年間は、「夢を追い求め、挑戦すること」を
合言葉に、快進撃を続けて行った。その間、想像と空想が
私に寄り添い、その通りに現実になっていったのである。

※アラヤ識 (阿頼耶識) 仏教用語。心の真相部の教義。
 一切の存在は、自己の阿頼耶識より作り出されたもの
 と説かれる

奇跡の杖

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2007年11月20日 (火)

【速報】…トミタの性能!

先日オープンした淀屋橋院で、新導入したIN・BODYと言う身体の
テスターで
僕の身体の性能を計測したので、結果を報告します。

クルマに例えればシャシー・ダイナモそのもので、その人間用の
テスターの、イン・ボディで現在の自分自身の性能を測ってきました。

項目別に身体の強度やバランスなどが一目瞭然に表として出てきます、
ほんとにクルマのシャシー・ダイナモと同じでビックリ!

項目が沢山あるので、一般的に興味があるところだけ報告します。

【計測日・11月10日  62歳  身長168cm  体重61.2Kg】

『体成分分析』・・・はすべて標準の範囲です。

『骨格筋・脂肪』・・は体重・61.2Kg、骨格筋量・30.0Kg、体脂肪量・8.3Kg
           で理想的なグラフ形状でした。

『肥満診断』・・・・・はBMI・21.7Kg、体脂肪率13.6%、ウエストヒップ比0.88
           とくに体脂肪率は高齢者の見本になると褒めていただきました。


『筋肉バランス』・・は上半身、下半身、筋肉強度、共に下半身は標準で、
           特に上半身は標準を上廻る筋肉量でした。

「フィットネススコアー」・は81ポイントで、通常は70ポイントを下廻るのが一般的
              で62歳の年齢を考えると、最高のスコアーと言われました。
              
以上が、僕の現在の身体の性能です。

ジムには行かず、必ず毎朝15分ほど自分で作ったメニューをこなしています。
身体と心を同じレベルに保つことが、健康の秘訣とつくづく思います。

自身の肉体をチューニングする目的で、アンチエイジングに取り組んで早や5年!
いつもは血液検査でチェックしていましたが、今回初めて肉体の状態を知る
ことが出来、想像以上の結果で自信を深めました。

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2007年11月16日 (金)

クルマお宝話(4)

創業してからすぐには、順風満帆とは行かなかった。
当然の結果だ!
セールストークが一切出来ない。
知識は山のようにある、言いたいことはいくら
でもある。だが、営業経験のないメカ上がり、
「はー」「はい」「いいえ」のオウムの様な返事
しかできない、我ながらビックリだ。

それでも1ヶ月、3ヶ月、半年と時間と共に
流暢とまではいかないが、調子が出てきた。
かえってよかったのかも 朴訥で!

独立して1年も過ぎた頃には、京都中の
スポーツカーを買い集めていた。ディーラーの
下取り車、業者や個人からの情報が入れば
どんなに遠くにでもすっとんで行った。

2年目はおもしろいようにクルマが集まった。

独立直後の昼飯は、近所のうどん屋に無理を言って
めしの大盛りをだけを分けてもらい、おかずは適当に!

半年ぐらいして、肉カレーうどんとめしに昇格した。
1年もすれば薄情にも「うどん屋」を捨て「すし屋」に
またまた昇格した。

勤めていた会社で最後にもらった給料が1万8千円
ちょっとで、月々のガソリン代が1万円弱。

創業2年目で出前を「すし屋」から取る頃には
月収30万位になっていた。

だが長くは続かなかった。

かなり京都で評判になっていたらしく、
資金力のある業者がまねを始めた。
いままでスポーツカーなんか見向きも
しなかったくせに!

儲かると思ったのだろう、スポーツカーを
扱う店が増えた。
「万事休す!」

だがチャレンジャーのトミタはすぐに決意した。
「輸入車専門店」をやろう!
これが後々スーパーカーブームに続くのだが、
まだまだ機は熟さず。

国内で仕入れた輸入車で勝負するが、
これが「クセモノ」だった。
来る客、来る客、ロクなヤツが来ない。

この頃の欧州車や米車の客層は最悪だったのだ。
わざとクルマを壊して「どうしてくれる」、
「金でカタを着けよう」「クルマを換えろ」などと、
全く仕事にならない。

暴対法などない時代で、ほんとに困ったが
負ける訳には行かない!
日本刀、拳銃、猟銃などいろいろ持って来て
チラチラ見せて脅す!
監禁もされたけど、怖がってなんていられない。
クルマを取られたり、お金を取られて店が
つぶれる方が余ほどコワイ!

本気でクルマと命を引き換えにと思っていた。

トミタオートに続けと独立した若い経営者達は、
皆、ヤツらに潰された。

戦後25年はまだこんな感じだった。

そんなこんなで、やっぱり僕にはスポーツカー
しかない!と思い知った。

そうだ!見得やハッタリでクルマに乗るヤツは
相手にしないで、クルマ好き、スポーツカー好き
の人だけを対象にクルマ選びをしよう!

考える必要もないくらいすぐに決まった。
真っ先に頭に浮かんだのはポルシェだ!
憧れのポルシェ356、912、911、
考えるだけでワクワクしてくる。

創業から5年程だと思う、お店も改装して
少しはきれいにカッコ良くなって、資金繰りも
多少楽になっていた。そのうえ、独立まえに
アドバイスをくれた例の先輩が、東京自動車
共同組合に特例で入れてくれた。

当時、関西にはこの様な組合はなく、何処で誰が
何のクルマを持っているのかまったく分からない
状況だった。

そこで僕が将来、関西に組合を作るために
特例で東京の組合に参加させてくれたのだ。
この事は、僕の第一期のクルマ人生に於ける
ターニング・ポイントになった。

一瞬にして東京に沢山の知り合いと取引先が出来た。
逆に東京の人から見れば、京都に知り合いが1人
出来たことになる。

月に何人もの取引先の人が、京都観光やら
遊びに来るついでに、ポルシェやアルファロメオや
BMWに乗って来てくれる。

当然、そのクルマは僕が引き取る約束がしてある。
ぼくは探しモノが手に入るし、取引先の人達は
売った利益で遊んで帰れる。
そのうえ京都まで自走してくるので、クルマの程度は
ホントに良かった。

当然この逆で、僕も頻繁にクルマに乗って東京に行き、
2時間か3時間でUターン。
手に入れた、お気に入りのクルマで東名高速を
楽しんで帰ってきた。

次回は名車や珍車で東名高速を走った、
おもしろ話を書くつもり!

ポルシェ356Bカブリオレ

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2007年11月14日 (水)

奇跡の杖(2)

手帳・奇跡の杖

人生は蘇る

●願っていることが思うように叶わない人
●もっと成長したいと思っている人
●夢がもてない人
●辛いことや苦しいことばかりの人
●誰も頼る人がいない人
●体が弱い人
●意志が弱い人
●やる気が湧いてこない人・・・などなど

この「奇跡の杖」で人生は必ず蘇る。なぜなら、
それらの姿は、四十年前の私自身でもあるのだ。

今までの人生がつまらないと思うなら、
今までの心の感じ方や使い方をリセットして、
素直な気持ちで読んでほしい。

素直な気持ちで接すれば接するほど、
不思議なことがどんどん起きてくる。

奇跡に近いようなことでさえ、身の周りに起きてくる。
何より、幸せで優しい気持ちが、自分の心の中に
充満するに違いない。


実践の証



三歳で戸籍筆頭者


私は三歳で父と死別。母とも同年に生別し、
天涯孤独の身に・・・
つまり、三歳の幼児にして、戸籍筆頭者に
なってしまった。あまりに幼すぎたがゆえ、
家族との思い出すらない。

その後は幸いにも、叔母に育てられたが・・・

しかし、小、中、高校と、子供ながらに戸籍筆頭者
という生徒は他になく、いずれの学校でも、始まって
以来のことで、担任の教師は皆、私が将来就職する
ことは不可能であろうと心配してくれた。



夢を叶える原動力

この心配は後に、現実のものとなる。
しかしこのことが、若くして独立する原動力となり、
結果としては大正解で、自らの境遇に感謝する
に余りある結果となったのである。

思春期の頃は、それこそ他人と違うこの境遇で、
何もかもが無い無尽くしの状態。

満たされない日々。

こんな折、私を満たしてくれたのは想像と空想である。
想像と空想は、私の大の得意技となった。

実は、この想像と空想こそが、後に、私のすべての
夢を叶える原動力になるのである。



チビの奇跡

中学一年の終わり頃、初めて恋をした。
当然?のごとく、ふられた。チビは嫌いだと。
このとき、得意の想像力で、背が高くて強くて
逞しい男になっている自分の姿を空想し、
そして念じた。

「絶対になってやる」と。

当時の私は本当に背は低く、体も細く、栄養失調気味で
元気のない少年であった。
ところが、中学二年になってすぐに、不思議なことに
通学路でバレー部の先輩に声を掛けられ、入部を
勧められた。
このチビでヒョロの自分に?
これはチャンス。当然ながらバレー部に入部した。
この一年で、十四センチも身長は伸び、五十人のクラスの
中で、真ん中より後方になったのである。

それだけではない。一日も休まなかった練習によって、
細い体は逞しく、そして、日に焼けて元気な男の子に変身!

厳しい練習はお腹を空かせ、よく食べるといった好循環で、
栄養失調ともおさらばとなった。

手帳・奇跡の杖

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2007年11月12日 (月)

クルマお宝話(3)

「HONDA]の看板」
そう言えば、この創業から30年以上もたって、仲良しのヒロちゃん
(本田博俊氏)に「HONDA]の看板が載った本を見せたら、
親父に見せるからと一冊渡した。
ひと月ほどしてヒロちゃんが親父(本田宗一郎氏)に見せたら
”喜んでたよ”と言った。

僕は”ほんと、よかった”とだけ言ったけど、
内心は本当に本当に うれしかった!

*今、大変だけどヒロちゃん「ガンバレ」無実を信じています。

僕にとってホンダS600はオープン・スポーツカーに
目覚めさせてくれた掛け替えのない最初のクルマなのだ。
通称 エスロク(S6)
S600
21歳のとき、やっとの想いでベストコンディションのS600
を手に入れた。
そしてフロントグリルとボンネットをS800用に換え、
当時、おそらく初入荷だと思うミシュランのラジアルタイヤ
に履き換えた。
この頃、タイヤにお金を掛ける人はほとんどなく、
溝があればいい程度で、再生タイヤが結構売れてた時代だから、
性能の差は歴然である。
いつもお尻を流していたコーナーでグリップするのには
驚いた記憶がある。
ずっとS800に憧れ続けたが、結局お気に入りのS600が
手放せず縁がなかった。


そして2台目のオープンスポーツはオースチンヒーレースプライト・マークⅠで
東京まで買いに行った。
帰る途中、ダイナモが壊れ、月明かりの東名高速をライトを
消して走って帰って来たことなど懐かしく思い出す。
このクルマをグリーンに塗り替えて乗ってたら
コマーシャルに是非にと!
そう言えば雨蛙そっくりだった。
いまから思えば、性能より味わいが勝っていたクルマだと思う。
高速と言えど、ほとんどクルマの走っていないノンびりとした
時代だったなあ~!

3台目はパブリカ・コンバーティブル。
これは意外に良かった。
空冷2気筒でグルルルルと、ちよっと変わった加速時の
排気音が好きだったし、
当時としては結構加速も良かったし、
燃費も良かった。
ツインキャブ仕様で4速、
オーケストラの指揮棒ほどもある長い長いシフトレバーを
1速から2速に入れクラッチをつないだ瞬間、
競馬のスタートのごとき勢いでポーンと前に飛び出す癖が印象的で、
憎めない、人懐っこい印象が残っている。
Paburika


当然、次の4台目は真っ赤なボディーのトヨタS800。
車高を落とし、バンパーをはずしてキャブのジェットを大きいヤツ
に換えてジャガーEタイプ見たいと一人うっとりしていた。
本でしか見たことも出会った事もないくせに!

この頃かな~!
深夜の京都で、ダイハツ・コンパーノGTの改造車によく出会った。
後に林みのる(現、童夢社長)だと知る。
以来40年近い友人だ。
この頃、夜中に走っているのはタクシーぐらいでクルマの
数も全く少なかった。
この頃は、スポーツカーなどめずらしく目立つ存在だった。

それからフェアーレディ1600、後に2000、
オープンではないけど、ハンドメイドの初代シルビアなど、
いろいろ乗ったな~!

これみんな独立前の話で、その頃、足代わりに
ホンダN360を450ccに改造してN450にして得意になっていた。

このN450で、その頃知り合ったとんでもなく頭のいい、
東京の女性を乗せて自慢げに京都の街を案内した。
『この次は東京へいらして!』とのお招きを受け、
当時の僕のとっておきのクルマ、初代シルビアに乗って
東京まで意気揚々と出かけた。

シルビア

迎えに来てくれた彼女のクルマを見て絶句した!

映画で見て知ったばかりのまっ黄色の新車、
マスタング・コンバーティブルで
『お疲れさま!トミタさん、ステーキでいい?』
このクルマとこの言葉でアタマ真っ白!
いまだにナニを話したのか覚えがない。

そんなこんなで僕の頭にマスタングが宿り、
数年後ステーブマックィーンの「ブリット」も相まって一時
シェルビーコブラGT500に暫く乗っていた。
コイツはハンドルで曲げると言うよりアクセルで曲がる感じで
豪快の一言に尽きる。
でも加速は最高だが
直進安定性は話にならない!
たった100kmでも一車線ぐらい横に飛んでしまう。
いま思えば、あのワイドオーバルタイヤのせいと思うが。

これらの話は創業の一年前ぐらいだった様に
記憶しているが、どーだか!

マスタング

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2007年11月 9日 (金)

クルマお宝話(2)

何からスタートしようかいろいろ考えたが、目的はお宝話なのだから
雑誌などですでに紹介されているものは、なるべく避けて僕自身の
お宝話しで書いて行きたいと思う。

やはり創業の時から本の頁をめくる様に順を追って、
その時々の思い出や、エピソードを交えて書いていくのが、
筋道がたっていいと思う。
なぜトミタはクルマを造るようになったのか、何がトミーカイラの
チューニングカーやZZのテイストの素になったのかなど、
後々のクルマ造りや私の人となりを、もっと理解して貰えると
考えたからだ。

それでは一速からスタートしょう!

創業時、23歳、何と39年も前の話だ。
サラリーマンに全く向かない、クルマが大好きな若者が、金も何もかも
ないない尽くしからのスタートだ。
ひとつだけ幸運にも創業の地の目の前に国民金融公庫(当時)があった。
足繁く通って開業にこぎ着けた。

本当は工場をやりたかったが、とても資金的に無理!
クルマを売って利益を上げて、それから工場を!が夢となった。
事務所にはトイレすらなっかた。近くの天神さんのトイレに行けばいい!
それがトミタオート商会のスタートの姿だ。

Tomita_auto

なぜかHONDAのトタン板の看板が掛かっている。
そう特約店としてホンダN360の新車が2台、レッドとグリーンを展示、
そして3台のスポーツカー!
ホンダS600、オースチンヒーレースプライト、トヨタS800,
これがトミタオート商会のスタート時の展示車だ。

こうしてたった3台だが、スポーツカー専門店とし販売に乗り出した。

思えば、中学生の頃からメカに興味を持ち、高校時代はオートバイのピストンを、
ポケットに入れて授業中にペーパーでピストンを磨いていた。
新品のピストンを少しでも軽くして、そこに新品のピストンリングをはめて
回転の上がりを稼ぐのだ。当時、トーハツ・ランペットと言うバイクがあり、
それでモトクロスのレースに出ていた。


後にモトクロス日本チャンピオンになる友人と毎週、山や川原で腕を磨いた。
この友人こそが後に日本で初めてとなる F1・KE007を造った小島君だ。
大の仲良しだった彼の影響で僕のクルマ人生がスタートしたと思う。
その上、このKE007のチーフメカニックとしてこのF1の制作に拘わったのが
後にコンビを組むことになる解良君だ。
やはりコジマエンジニアリングの代表・小島君との出会いは大きい。


そんな僕が18歳でメカニックとしてとあるディーラーに就職した。
総アルミの4気筒エンジンを1人で完全にオーバーホール出来る様になる迄
には時間は掛からなかった。

腕には絶対の自信があった。

そのころに会社の前の大通りで人生を決定ずけるクルマに出会った。

ポルシェ356だ!

ほとんど息が出来ないくらいの衝撃で、クルマの往来も
無視して大通りの真ん中で、”356”が見えなくなるまで見送った。
この時の興奮と脱力感は今でも忘れていない。


こんなところでこんな事をしている場合ではない、すぐに決意した。

独立しよう!
自分の考えで、自分のやりたい事をやろう!

これが独立、創業の動機になった。
自分が大好きなスポーツカーだけを扱う店を!

Porsche356

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2007年11月 6日 (火)

クルマお宝話(1)

これから、クルマのお宝話をシリーズ化して書いて行きたい。

僕のクルマ人生で大きく3つのウエーブがあると思う。

最初の10年は23歳で独立して、まだあまり日本人が
海外に行かなかった26歳の時、日本人が見たこともない
クルマを仕入ようとイタリアを中心に旅に出た。
そしてめぐり合ったクルマがスーパーカー達。
衝撃!
そしてスーパーカーブーム。

Lamborghini Jota

30歳を過ぎた次の10年、今度は西ドイツでひらめいた!
チューニングカー達だ。
必ず日本にもいつかチューニングカーの時代が来ると!
見た目はいいが現実的には乗り物にならないスーパーカー達に
代わって、見た目はセダンとまったく同じで、中身はスーパーカー
と遜色ないこいつに頭をガツンとやられてひらめいた!
これだ僕が追い求めていたものは!
と一瞬にして明日からの仕事が決定した。
ベースになる日本車がしっかり育つまで、ヨーロッパ車を
ベースにしたチューニングカー で勉強しようと!

結果としてAMGやHARTGEの総代理店として、
日本人がほとんど知らないブランドを育てて行く
ことになるのだ。

Hartge BMW

そしてとうとうオリジナルブランド
TOMMYKAIRAのスタートとなる。執念!

そして次の10年、僕が丁度50歳のジジイになった時、
オリジナルスポーツカーZZを 発表した。
解良と僕、二人の爺爺で、ZZと命名した。

トミーカイラ ZZ

書くと簡単だが、半生をかけた幸せなクルマ人生である
とつくづく思う。感謝である。

前置きが長くなったが次回からは、クルマにまつわる
思い出話や、開発の苦労話など、いろいろその時の気分で
楽しく書いていきたい。お楽しみに!

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2007年11月 5日 (月)

奇跡の杖(1)

はじめに

Diaryこの「奇跡の杖」の手帳は、私が実社会を生き抜いて
来た中で、あらゆる分野で一芸に秀でた人、また、
成功を収めた人々から忠告を受けたこと、さらに、
心に深く残った書物の一行などを書きとめて、
私自らが実践し続けてきたことを記している。

まさに、私にとっての実践の「書」である。

四十年の間に、消したり加えたりを繰り返し、結果として
手帳というサイズになり、肌身離さず人生の羅針盤として、
私を支え続けてくれた宝物なのだ。

つまずいたとき・・・落ち込んだとき・・・迷ったとき・・・
常に心のコンパスとなって、いつも元気をくれた手帳である。

繰り返し、繰り返し読むことによって、いまや自分の
心と完全に同化し、「前向きな自分」「夢のある自分」
「健康な自分」へと導いてくれた、私の至極の宝物である。

高いハードルを越える・・・難しいチャレンジを達成する・・・
このようなこともすべてこの一冊が叶えてくれた。

私はある確信に至り、この手帳は自分だけのものとせず、
世の中の人々にご活用頂きたいと考えるようになった
次第である。

あなたがこの杖を常に傍らにおき、人生を歩く支えとするうちに、
やがてあなたはすばらしい奇跡に出合うことになるだろう。

Diary_4

Tomitawalk

Line_2

追記:明後日11月7日、信州大学の招きにより、講演をすることになった。
詳細はこちらへ

午後6時からの講演なので、お近くの方は是非!

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