2020年8月12日 (水)

車お宝話(527)自動車メーカーになった男 20話

トミーカイラZZ | Tommy kaira ZZ

CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第20回

長年抱き続けた富田の夢がついに実現する日がやってきた。トミーカイラZZ、正式デビューである。大勢の国内外プレスを招く発表会が企画された。日本オリジナルのリアルスポーツカーの誕生を当時のクルマ好きはどう受け止めたのだろう。一方、舞台裏では市販に向けて最後の大きな難関が待ち構えていた。生産場所をどうするか。けれども富田は随分前からそれを解決するアイデアを温めていたのだった。

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昔から付き合いのあったアリスの谷村新司の紹介で、一世一代の発表会は東京プリンスホテルのマグノリアホールで開催することとなった。記者発表会と懇親パーティの2部構成だった。富田の親友で歌手のばんばひろふみが司会を担当している。

スタジオ撮影を終えたばかりの完成車とベアシャシーの2台が展示され、その前に用意された150席あまりのスペースは、発表会の始まる前にはほとんど満席となっていた。国産メーカーが開催する発表会と遜色のない盛大さだった。

午後2時。ついに富田とトミタ夢工場、そして生まれたばかりのトミーカイラZZの行く末を定める記者発表会が始まった。まずは解良が開発責任者として車両のコンセプトやアルミシャシーの技術的解説を行なう。続けて富田が生産台数や価格などマーケティング面の説明をした。記者からはいくつかの質問が出る。この時点で生産拠点は明確にされず、国内か海外か、運輸省との協議の進展次第とされていた。

車両本体価格は498万円で、1週間後の8月1日からオーダーの受付が始まり、台数は未定ながらも限定生産となることがこのとき発表されている。

記者発表会が滞りなく終わると、3時からは関係者を集めての懇親パーティとなった。レース関係者をはじめ富田の長年来の友人たちも多数かけつけている。なかでも富田が喜んだのは、前北米日産社長で当時カルソニック社長だった大野陽男(故人)がわざわざ駆けつけてくれたことだった。昔からの顔なじみといえばそれまでだが、富田は大きな会社の組織人からも何かと可愛がられる男でもあった。

1部2部を通して、富田はオリジナルスポーツカーの未来に確かな手応えを感じ取っていた。

鳴り止まぬ電話

運命の8月1日がやってきた。トミーカイラZZの予約受け付けの開始日だ。富田は期待と不安の入り交じった複雑な気持ちでその日の朝を迎えていた。

はたしてオフィスの電話は朝から鳴りっぱなしだった。それなりの反応を期待していたとはいえ、ひっきりなしに鳴り響く全国からの問合せの電話に、富田はもちろんスタッフも朝から一日中振り回された。初日に購入の意思を示したクルマ好きはなんと300人近くに及んだという。富田の想像をはるかに越えた、嬉しい誤算だった。

その後もZZフィーバーは続く。1カ月で430件の正式オーダーを獲得し、富田はそこで一旦、受け付けを終えている。実際には500件以上の購入希望者がいたのだ。おそらく年産150台程度が限界で、初年度はスロースタートとなり、いろんな状況変化を踏まえて向こう3年分の受注が精一杯、というのが430台で予約を打ち切った根拠だった。

この1カ月の間、富田は慌てて専用の注文書を造り、オーダー希望者へ送付した。バブル経済が崩壊した後だったというのに予想外に大量のオーダーである。「オリジナルスポーツカーを造る!」という、無謀と言うべき富田の決断を大いに勇気づけたのだが、それだけ造るとなれば当然、資金も潤沢に準備しなければならなかった。生産場所の問題も依然、解決されてはいなかった。

資金については予約者から手付け金を受け取る方法が手っ取り早かったのだが、ZZのデリバリーは早くて2年後、遅ければ5年近く先になってしまう。その間、トミタ夢工場はもちろん社会にも何が起きるか分からない(実際、起きたのだが)。そこで内金や予約金の類は一切受け取らず、生産のための資金を自ら調達することにした。幸いにも、日本興業銀行の京都支店長が430枚の申込書を見て、快く融資に応じている。

富田には後悔があった。それは500万円を切った値付けだ。富田は高く売らなければ後々ブランド力が付いてこないと考えていた。要するにもっと高く売りたかったのだ。けれどもトミタ夢工場の営業スタッフからは「高いと売れない」、「そこまでの知名度はない」と押し切られてしまう。結局、スーパーの値付けのような498万円になってしまったのだった。

トミーカイラUK設立。生産は英国で

長年、チューニングカーで運輸省と付き合ってきた富田には、役所の仕事に対する不信が根強くあった。そのため日本での生産には最初から否定的だったのだ。認可を得るのに時間と労力、金がいったいどれだけ必要とされるか。オリジナルカーで“型式認定”を受ける、ともなれば、その面倒や予算はコンプリートカー製作の比ではなかった。愛くるしいデザインやキャブレター付きエンジンだって日本の規制に合わせて変更を余儀なくされる怖れがあった。ZZを日本で造って日本で売るためにZZらしさを失う可能性すらあったのだ。

そんなことに莫大な金と時間を使うくらいなら、車両の開発に注ぎ込んだほうがまし。そう考えた富田には秘策があった。それは少量スポーツカー生産の本場・英国で生産し日本へ輸出するという方法だ。日本での許認可の可能性を探りつつも、並行して英国での生産を検討していた富田は、430台という望外のオーダーを前についに決断する。

96年、トミーカイラUK設立。英国では中小企業の育成という観点から様々な規制が緩やかになっていた。特に年産500台以下の自動車生産には寛容で、バックヤードビルダーに代表される様々な少量生産メーカーが英国には昔から存在した。

もうひとつ、英国での生産には利点があった。それはスポーツカー発祥の地であり、モータースポーツ人気の非常に高いというお国柄ゆえ、大小さまざまなレーシングカーコンストラクターが豊富に存在していることだ。つまりスポーツカーをイチから組み立てるために、これほど理想的な場所は他になかった。

なかでも富田が英国子会社設立に選んだノーフォーク州にはスポーツカー&レーシングカー製作の名門ロータス社があり、それを支えるサプライヤーが特に充実する地域でもあった。富田の目にそこはもう宝の山としか映らなかった。

英国でクルマを組み立てること自体は問題なさそうだ。残る課題はむしろ、口うるさい日本のユーザーを満足させるだけの“ジャパン・クオリティ”をどう担保するかにあった。

それを解決すべく富田はここでもまた長年の友人、レース界の著名人を英国子会社の責任者に担ぎ出すことに成功する。

こだわりの生産方式

新たな登場人物の名前は鮒子田寛。日本人レーサーの草分け的存在で、海外挑戦のパイオニアというべき人物である。

二十歳でトヨタワークス入り。2000GTや7で数々の国内レースを制したのち、単身アメリカへ渡る。日本人として初めてF1選手権にエントリーし、生沢徹とともに日本人初のル・マン24時間参戦という快挙も成し遂げた。現役引退後は林みのる率いる童夢に入社。ル・マン参戦で童夢と一心同体だったトムスに転じると、英国に渡りノーフォークに設立されたトムスGBでトヨタの海外レース活動をサポートする側に立っていたのだった。富田はその実績と人脈に目を付けた。

富田の判断に狂いはなかった。クルマ造りに必要なネットワークがことさら改めて探す必要もないほどに鮒子田にはあった。サプライヤーはもちろん、生産管理者を筆頭に組立工に至るまで必要な人材もあっという間に揃ってしまった。ジャパン・クオリティを共に実現すべく、解良もまた英国に渡って鮒子田の家に居候し、初期の生産立ち上げを見守っている。

英国でZZを生産するにあたり富田が重視していたのは、「10年以上安心して乗れるクルマにすること」と「大メーカーに匹敵するクオリティを備えること」だった。そのためにパワートレーンやステアリング、ブレーキ、重要な保安部品はメーカー製を活用し、それ以外のパーツ生産もまた近在のサプライヤーに依頼することにした。たとえば最も重要なパーツのひとつであるアルミモノコックシャシーは長年にわたりロータス社のシャシーを生産した名門“アーチ・モータース”に依頼している。

本格的な生産を目指して、生産現場での試行錯誤が始まった。富田の目指す“ジャパン・クオリティ”の達成を日本人と英国人のスタッフが一丸となって目指していた。

そんなとき、ZZの行く末を左右しかねない大事件が勃発する。

【次回予告】

トミーカイラUKの設立で430台もの受注にふさわしい生産体制を整えることができた富田とトミタ夢工場だったが、またしても行く手に立ちふさがったのは“役所”であった。しかも、その役所の朝令暮改の判断がトミーカイラZZの運命を180度変えてしまうことになる。富田の運命の歯車がこの頃から徐々に狂い始めようとしていた。

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2020年7月20日 (月)

車お宝話(526)自動車メーカーになった男 19話

トミーカイラ ZZ | Tommykaira ZZ

CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第19回

カーデザイナーの由良拓也に託された新オリジナルスポーツカーのデザインは当初、“ドアなし”だった。ところが正式発表の1年ほど前になって、急遽、ドアを付けることに。すでに予定販売価格も決まっていた時点でのそれは大変更である。そして富田が長年抱き続けた夢がいよいよカタチになろうとしていた。プロトタイプ第1号車が完成したのだ。

新しいスポーツカーの名は爺?

毎週月曜日に本社へ役員が集まって何やらヒミツの会合を開いている。トミタ夢工場の若い社員たちはいつしか、「爺たちの集まり」と呼んでいた。それを聞きつけた富田と解良は怒るどころかその語感に面白みを感じ取った。ふたりの爺さん(といっても40歳代後半だったが)が造るスポーツカー。車名はトミーカイラZZと決まった。

シャシーは完成したものの、エクステリアデザインがいっこうに固まらない。業を煮やした富田は、旧知のデザイナー由良拓也に全てを託すことにした。当時から遡ること20年も前に富田と由良は林(みのる)と一緒にスポーツカー造りを試みたことすらあったのだ。解良とも仕事上の接点があったことも幸いした。

すでにテレビコマーシャルに起用されるほど著名なレースカーデザイナーになっていた由良から、早速いくつかのアイデアが舞い込んだ。最終的に2案にまで絞り込まれ、5分の1クレイモデルが製作される。最終2案の違いは主にヘッドライトまわりとフロントフェンダー、サイドインテークのデザインだった。

いずれの完成度も高かった。なかでもルーフを取り外してリアにそのまま載せることができるというアイデアに富田は唸った。後年、このアイデアはポール・フレールをはじめとする多くの専門家が絶賛している。

どちらの顔立ちを選ぶか。富田には長い間思い続けてきた“あるイメージ”があった。それは「動物的な愛着のもてるカタチ」だった。

トミタオートの黎明期に扱った数々のスポーツカーのなかで富田が最も心を奪われたのは実はアルピーヌA110だった。量産車のエンジンをリアに積んだ小柄で圧倒的に背の低いスポーツカーは富田を魅了した。ばかりか将来、自分にだってスポーツカーを造ることができるかもと思わせたのもアルピーヌだった。

“ドア無し”から“ドア有り”へ

カーグラフィック誌の1995年1月号で、トミタ夢工場の㊙プロジェクトが初めて公になった。そこには由良拓也による黄色いトミーカイラZZの、なるほど動物的な愛くるしささえ感じるスタイリングが描かれていた。

けれども、そのイラストにはまだドアがなかった。カーグラフィック誌も「ドアもない!? 」とその違和感を正直に記している。実はこのとき、トミタ夢工場の社内検討会でも、ドア無し派とドア有り派で意見がふたつに割れていた。解良は軽量化と生産性を考えてドア無しにこだわった。けれども富田はドア有りを主張した。

デザイン検討用に5分の1クレイモデルが完成したとき、富田にはある違和感があった。ルーフを付けた状態では車高が妙に高く見えて、スポーツカーらしさに欠けると富田の目には映っていたのだ。ドアが無いため、乗降性を考えてルーフを高い位置に置いた結果、フロントスクリーンがとにかく大きくなったのだ。

フロントスクリーンを3分の1ほど削りたい。そうすると必然的にドアが必要になる。だから富田はドア有りを主張した。

もちろん富田にしてもこの時点でドアを新たに加えることの無謀さは理解していた。たかがドアというなかれ。実は自動車においてパワートレーンの次に最も金が掛かるのは開閉機構のついたパートである。発表予定まで1年と少し。しかも価格は誰もが頑張って買える400万円台にする、とすでに社内で合意を得ていた(富田は反対だったが)。生産性や原価コスト、スケジュール、重量など、ドアを付けることで増える問題点を考えるだけで気が遠くなる。

それでも富田はドア有りを選んだのだった。

“5分の1”から“1分の1”へ

最終のドア付きスタイルが決まった。シャシーは完成済み。いよいよ1分の1の雄型を製作する行程となった。オリジナルスポーツカーを造るという富田の夢が少しずつカタチになっていく。そのプロセスは至福の時であったとともに、悩み多き葛藤の時間でもあった。

実車の大きさになったときそれは本当にカッコいいのか? はたして無名のスポーツカーを欲しいと思ってくれる人がいるのか? オーダーが沢山入ったとして間に合う生産体制を取れるのか? そもそもあの厄介な運輸省を相手に予定どおり許認可を得ることができるのか?

本当に完成したら絶対に買うよ。そう言ってくれる理解者も多かったが、量産するとなれば富田のことを知らない人にも注目されなければならない。スタートダッシュに掛かっていると言ってよかった。

プロジェクトがスタートした頃は、ただ「良いクルマを造りたい」「楽しいスポーツカーを造りたい」という一心だったが、こうして1分の1の実車が少しずつカタチになってくると、「実物大のプラモデルで終わってしまうのではないか?」という不安が次から次へと富田を襲ったのだ。

いよいよ1分の1が完成した。これ(雄型)をベースにこんどはメインボディとパーツごとに分けて雌型を製作する。それゆえ最初の雄型の仕上がりは最も重要なパートというわけだが、さすがに由良拓也率いるムーンクラフトは手慣れていた。

お披露目用の1号車、完成す!

1分の1の雄型から抜かれた雌型を使って、もういちど実車用のボディパネルやパーツを成型する。ボディパネル素材は軽くて丈夫なFRPだった。

ムーンクラフトで製作されたパネルが京都の塗装工場へと送られてきた。トミタ夢工場の未来はすべてこの発表用初号機の仕上がりに掛かっている。塗装工場の職人たちは意気に感じていた。

シルバーにペイントされたトミーカイラZZが完成した。雄型の原型からは想像できないほど、それは輝いていた。ツルツルピカピカのボディを撫でまわしては、眺め直してしばしうっとり。富田はしばらくそんなことを繰り返しながら、4年にわたったプロジェクトの軌跡を思い出していた。

完成した車体は早速、スタジオへと持ち込まれた。カタログ用撮影を行うためだった。以前からチューニングカーの撮影に通った場所だった。スタジオの社長以下スタッフ全員がZZ撮影の応援団と化した。朝から晩までぶっ通しだった。アルミモノコックボディを見せるため、スタジオ内でZZをバラしたりもした。1台しかない発表用の個体。傷でも付けたら大変だ。苦労の多い作業だったはずなのだが、富田には不思議と楽しい時間だったという記憶しかない。

最後にプロジェクトに関わった全員で記念撮影をした。カタログ用に撮影されたものだったが、世界中のプレスにも配信されている。誇りに充ちた男達が映っていた。彼らに囲まれて生まれたばかりのZZが恥じらいながら微笑んでいるように見える。それはZZプロジェクトの総仕上げにふさわしい1枚だった。

【次回予告】
いよいよ富田の夢が実車とともに披露されることになった。発表会には国内外のプレスがかけつけ、そのデビューにはすさまじい反響があった。予約受付開始と同時にトミタ夢工場の電話は朝から鳴りっぱなしだった。けれども富田はもう一つ、大きな問題を抱えていた。トミーカイラZZの生産をどこで行なうか、である。富田の心はZZが完成するはるか以前から固まっていたのだが……。

文・西川 淳 編集・iconic

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2020年6月 8日 (月)

車お宝話(525)自動車メーカーになった男 18話

TOMITA AUTO

CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第18回

プロトタイプシャシーが徐々に煮詰まっていくなか、他にもまだ重要な課題が山積していた。なかでもスタイリングと生産が最大の難関だった。一方、プロトタイプシャシーが完成したとき、とある日本のメディアにテストの機会が与えられている。そのことが後に思いも寄らぬ“幸運”をこのプロジェクトにもたらすことになる。

“ナカミ”だけで完成するクルマ

富田がオリジナルのスポーツカーにこだわった背景には2つの大きな理由があった。ひとつはもちろん、スポーツカーの量産という大メーカーにできない挑戦をすることでトミタ夢工場の総合的な技術力を世間にアピールすること。もうひとつは、当時の主力であった大量生産モデルのチューニングコンプリートカービジネスとは一線を画する商売の柱が欲しかったから、だ。

要するに、大メーカーの思惑に左右される続けるチューニングカービジネスだけでは富田は不安でならなかった。彼の頭のなかにはメルセデスベンツとAMGや、フォードとシェルビーコブラといった世界のビッグコラボレーションが目標としてあった。彼らにしても、その絶頂期にオリジナルカーを生産することは至難であったのだ。

オリジナルカーのプロジェクトは、月曜日毎の役員会に上がってくる報告を聞く限り順調のようだった。ごく初期に寸法取り用に造ったベニア製のモノコックに座ったきり、あとは解良喜久雄の率いるエンジニアチームに任せきりだった。

ある日、解良は「試作車ができあがった。これから乗りに行こう」と富田を誘った。試作の行なわれた亀岡工場には1台の“ハダカのマシン”があった。

ボディカウルのない、シャシーのみの試作車。一見、フォーミュラマシンのようだ。富田の第一印象は「低くて幅の広いなかなか頼もしいやつ」で、実際、亀岡工場の敷地内をドライブしてみれば、それは想像以上に楽しい乗り物であった。

名門自動車メディアがテストに潜入?

車重の軽さを生かしたレスポンスの良さと、全ての操作がダイレクトに身体へ伝わる感覚が、このクルマの魅力の全てだと“ハダカのナカミ”に乗って富田は即座に見極めた。解良もまた、その出来映えに満足していた。彼にしてみればイメージした通りに仕上がっていたのだった。

それまではとかくエンジンをハイパワーにしなければ得られなかったような加速フィールを、馬力はそこそこでも軽さを武器にすることで実現できるということに富田は新鮮な驚きを覚えた。そしてその楽しさを背中いっぱいに受け止めていた。「これは、いける! 」。富田はそう確信した。

数日後。このプロトタイプシャシーは岡山県にあるダンロップのテストコースにいた。実はトミタ夢工場の歴代チューニングカーにはダンロップでテストしたオリジナルのタイヤを履かせていたのだ。大メーカーならいざ知らず、トミタ夢工場のような小規模ブランドにもテストの機会を提供するという、こうしたサプライヤーの存在もまた、決して表には出て来ないけれども心強い味方だったのだ。

当日はR33スカイラインベースの新型M25のテストも兼ねていたが、スタッフの関心は“ハダカのマシン”にこそあった。そして、そこには初めて部外者の顔もあった。

日本を代表する自動車専門メディアである「カーグラフィック」(CG)誌の編集長を含むスタッフが特別な許可を得て取材参加していたのだった。

CGのスタッフはもとより、開発陣も満足のいくテストを行なった。そして、のちにこの事実は思いもよらぬ結果をもたらすことになる。

盗作疑惑を一蹴

これは後の話になる。このプロジェクトが完遂し、その披露をした直後(95年7月以降)に“疑惑の視線”が海の向こうから向けられた。曰く、「また日本が英国の真似をした! 」。実はトミタ夢工場のオリジナルカープロジェクトが正式に発表される1年ほど前に、日本のとある会社がロータスセブンもどきのモデル(ニアセブンと呼ばれるレプリカ)で「日本における十番目の自動車メーカー」というフレコミの大々的なニュースになっていた。あんなのは自動車メーカーとは言わない。英国人のそれは真っ当な反発でもあった。

そして、富田たちの造ったアルミ押し出し材のモノコックシャシーを持つライトウェイトスポーツカーというコンセプトもまた、当時発表されたばかり(95年秋のフランクフルトショー)のロータス・エリーゼにそっくりだったのだ。そこで、愛国心の強い英国のカーマニアが訴え出たというわけだった。

このとき富田は95年1月号、つまりは94年12月に発行された日本の老舗メディアにプロトタイプのテスト風景が載っているという事実を堂々と伝えている。ロータス・エリーゼを模倣することなど事実上無理だった。むしろ、その逆があるのではないか。

幸いなことにカーグラフィック誌は海外でも手に入った。思いもよらぬことに、その後、批判はぱったりとやみ、むしろ称賛が巻き起こった。曰く、「日本人の造ったスポーツカーがロータスを駆逐する! 」。なかにはロータス側の模倣を示唆するリポートもあった。日本以上に英国で話題になり、ついにはかのBBCが取材のために来日した。そして彼らはこう漏らしたという。

「日本人は損だね。こんなに凄いクルマを造ってもNHKは全く知らないし、興味ももってくれなかったよ」。BBCは同じ国営放送局としてNHKと提携していた。それゆえ、コンテンツの共同製作を申し出たのだが、NHK側にはまるで話が通じなかったという。

動物的な魅力のあるスタイルを!

プロトタイプシャシーが煮詰まる一方で、富田はさらなる難問を抱えていた。デザインだ。クルマはスタイリングが命。小さい頃から大のクルマ好きで、実践者でもあった富田本人がそのことを最も理解していた。どんなに性能が素晴らしくても格好悪いクルマには誰も振り向いてはくれない。否、ただ格好がいいだけではいけない。特徴があって、人を惹き付ける魅力がないとだめだ。富田はそれを、「ペット的な愛着の湧くスポーツカー」デザインだと考えていた。

当時の雑誌企画で、富田と林(みのる)、本田(博敏)、舘(信秀)という豪華メンバーが集い、「スポーツカーを造ろう」というタイトルで理想のスポーツカー像を描いている。もちろんそれは理想でしかなく、実現するのは難しいデザインだった(とはいえ、後の完成デザインにどこか似通った部分もあった)。

悩んだ挙げ句、富田は林とも相談し、昔から付き合いのあったカーデザイナーの由良拓也にデザインとクレイモデルの製作を依頼する。

由良が描いたスタイリングは黄色いボディカラーで、後の完成モデルとよく似た雰囲気をすでに醸し出している。また、5分の1クレイモデルも出来上がってきた。

後の完成モデルを知る我々がそれを見ると、ある重大な違いに気づくだろう。初期のデザインスケッチやクレイモデルのスポーツカーには、ドアがなかったのだ。

【次回予告】
ドア無しで始まった新オリジナルスポーツカーのデザイン。ドアを付けることになったきっかけはルーフの高さにあった。ドア付きモデルへの変更を含む最終デザインの決定は発表の1年ほど前であり、すでに予定販売価格も決まっていた時点での“大変更”だった。富田の夢は95年7月にとうとうアンベールされる。

文・西川 淳 編集・iconic

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2020年4月28日 (火)

車お宝話(524)自動車メーカーになった男 17話

CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第17回

バブル崩壊という会社存続の危機=ピンチをチャンスと捉えてオリジナルスポーツカーの開発が始まった。亀岡工場で開発の指揮を取ったのは70年代の国内レース界にその名を轟かせたエンジニアの解良喜久雄(かいら・きくお)である。解良には既に頭のなかで暖め続けてきたオリジナルスポーツカーのアイデアがあった。

社長、100万円ください!

92年1月の役員会で正式にオリジナルスポーツカーの開発が決まった。開発の陣頭指揮はもちろん解良喜久雄(かいら・きくお)が取ることになった。

解良が開発費用として富田に求めたのはわずかに100万円だったという。解良というエンジニアの考え方がこの金額に現れている。もちろんバブル経済の崩壊で会社が厳しい局面を迎えていたこともあった。けれどもそれ以上に解良は安く造ることにこだわっていたのだった。

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ギャラリー:【連載】自動車メーカーになった男

これは、ひとりのクルマ好きが23歳でカーショップをたちあげ、スーパーカーブームやチューンドカーブームのハシリを造りながら、49歳でついにオリジナルスポーツカーの企画・生産・市販に至るという、究極の“カーガイ・ストーリー”である。

当時のトミーカイラ製チューニングカーは、フェアレディZスカイラインGT-Rといった高性能マシンベースに開発が続けられており、勢い国内外のスポーツカーブランドをも巻き込んでの馬力競争にさらされていた。この路線で勝負を続けることは危うい。そう感じていた解良はトミーカイラ製チューニングカーとは全くベクトルの違うスポーツカーを頭に描いていたのだ。

それは軽くてシンプルで乗っているだけで楽しくなるクルマ、である。しかもそれなりの数を売らなければ意味がないとも思っていた。そのためにはできるだけ安く作って安く売らなければならない。

金のかかるトップカテゴリーのF1マシンを造ったレースエンジニアの、それは意地でもあった。

試作車を初めてみた富田の印象は「低くて、幅が広くて頼もしいやつ」だった。このカウルのないフォーミュラーカーのような姿のままで施設内を試乗し、そのフィーリングを確かめた。

もうひとりのカーガイ  

小さい頃から乗り物とモノ造りに興味のあった解良は、中学時代にバイク屋へ入り浸るようになり、そこで整備や修理の方法を見よう見まねで学んだ。バイクを乗り出す頃にはもう何でも自分でできるようになっていた。二輪は危ないからと父親に諭されて四輪へ転向しても、“自分で何でもとことんやらなければ気がすまない”という性格は少しも変わることがなかった。

サーキットへは溶接道具を持ち込んで走っていたというから、まるでひと昔前の自動車メーカー開発部隊のようだ。走っては考え、考えては工夫を凝らし、その場で切ったり貼ったりした。彼のマシンだけはその日のうちに速くなることが多かった。

金や道具が無いからできない。そんな言い訳が大嫌いだった。無いなりに工夫して勝負する。そうやって生きてきた。失敗を怖れることなく自ら考え抜いたアイデアを実行に移す。その繰り返しが糧となる。誰かに教わったり枠にはめられたりすることが未だに大嫌いだという解良はその代わり、自分で答を探し出すことにはいつも夢中になれたのだった。

70年代にF1やF2、GCマシンを造り続けた経験が、レーシングカーとは全く違うスポーツカーのアイデアを生む。開発がスタートしたときには既に解良の頭のなかには構想ができあがっていた。

だからこそ開発費の要求はたったの100万円だった。

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ギャラリー:【連載】自動車メーカーになった男

これは、ひとりのクルマ好きが23歳でカーショップをたちあげ、スーパーカーブームやチューンドカーブームのハシリを造りながら、49歳でついにオリジナルスポーツカーの企画・生産・市販に至るという、究極の“カーガイ・ストーリー”である。

他にない楽しいクルマを

1億円のスーパーカーを少量造ることなど簡単だ。金さえあれば誰でもできる。高い素材や技術、パーツを買い集めてきて造ればいいのだから。けれどもスポーツカーを安くつくるためには頭をフルに使わなければならない。量産するともなれば尚さらだ。逆にいうと頭を使うからこそいいモノもできる。解良はそう信じていた。

それゆえオリジナルカーのシャシー製作には既製品の活用にこだわった。実際に出回っているモノを最大限に活用するのだ。大量に生産されているモノには既に証明された性能や耐久性もあった。どこでも・いつでも・誰にでも買えるモノを使うということは、製造者や販売者のみならず、最後には利用者にとっても多大なメリットになる。

プロジェクトが始まってすぐに解良はパワートレーンやサスペンション、シート、タイヤなど主だった部品を床に並べて、「完成したのも同然」と豪語した。これにはさしもの富田も苦笑するほかなかった。

そして実際、半年後にはプロトタイプシャシーができあがってきた。

プロトタイプシャシー完成す

アルミ押し出し材でモノコックボディを製作することは、レースでの経験もさることながら、トミーカイラ・コンプリートカー用のウィングステーなどパーツ製作からもヒントを得たものだった。当時のレースカーはカーボン時代を迎えており、アルミニウムは性能的にも重量的にも既に使えなかったが、量産性を考えた場合にロードカーにはまだまだ有効なマテリアルだった。

エンジンとミッションは日産プリメーラP11用で、SR20に京浜FCR4連キャブを装備していた。キャブ仕様を選んだのはECUを使うより安かったし、メンテナンスも容易で、チューニングもしやすかったからだ。

それにプリメーラのエンジンなら英国でも簡単に手に入った。生産組立工場があったからだ。チューニングカーの届け出などで役所の頭の硬さ(前例主義)に辟易としていた彼らは、仮に日本で生産できなかった場合に備えて海外生産のプランも既に描いていたのだった。特に車体製造の自由度が比較的大きい英国のSVA要項を満たす開発を解良は行なっていた。

いいクルマを造りたかったわけじゃない。トミーカイラでしか造れない楽しいクルマを造りたかった。

できあがったプロトタイプシャシーに初めて乗ったときの解良の感想ははたして「狙い通り」のひと言だった。

PROFILE
西川 淳
スズキ ジムニーからランボルギーニ カウンタックまで幅広く愛するモータージャーナリスト。富田氏との付き合いも長く、現在自身が京都に居を構えていることから、富田氏とは今も多くの時間を共有している。

(次回予告)
プロトタイプシャシーを徐々に煮詰めていきながらもスタイリングと生産をどうするかという次の課題が待ち受けていた。そこでもまた紆余曲折があった。またプロトタイプシャシーも完成した段階で日本のメディアにテストの機会が供されていた。早い段階でメディアに提供したことで後に思いも寄らぬ結果をもたらしたのだった。

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2020年4月 1日 (水)

車お宝話(523)自動車メーカーになった男 16話

TOMITA

Yoshikazu Tomita (No.16)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第16回

日産スカイラインに始まった国産車ベースのチューニングカー事業は順調に進みはじめた。トミタ夢工場の事業構想もますます膨らみ、富田はいよいよ念願だったオリジナルスポーツカーの開発を決意する。バブル経済はすでに崩壊していたが、富田が想像し続けた夢だけは決してはじけることはなかったのである。

トミーカイラ製チューニングカー、続々

89年4月に京都で開催されたトミーカイラ製コンプリートカーの発表会は、大覚寺という大舞台でトミーカイラという国産ブランドの存在を世に知らしめる絶好の機会となった。けれども富田は決してそれだけで満足しない。翌90年6月には早くも新型スカイライン(R32)ベースの2代目M20&30を開発し、嵐山でデビューさせている。

京都の名勝地にてお披露目。それも2年続けて。はっきり言って二匹目のどじょうである。それは富田も分かっていた。だから今回こそ主役はクルマだとばかり、白と黒の新型モデルを嵐山の緑をバックにして大胆に展示した。クルマそのもの魅力を存分に伝えるべく、プレスカンファレンスも落語会のように高座(発表者)と座敷(プレス)で行なうという非常な展開を試みた。富田は“二匹目のどじょう”の重要性も知っていたのだ。

なかでも2代目M30の開発には強いこだわりがあった。R32スカイラインをベースとした新型M30の開発がスタートした時点で、GT-R(BNR32)が復活するという情報をキャッチしていたし、それがターボエンジンの4WDであることも知っていた。けれどもGT-Rをベースとしたコンプリートカーの開発に日産からのゴーサインが出ない。そこで富田は持ち前の負けん気を発揮する。初代M30のコンセプトを引き継ぎ、GT-Rとはまるで異なる、けれども負けない高性能車を造ってやろうじゃないか……。

そうして生まれたのがFRで自然吸気3リットルエンジンを積んだ2代目M30であった。最高出力280ps&最大トルク30kgmは当時の自然吸気エンジンとしては異例のスペック(初代ホンダNSXと同じ)であり、M5を意識したというサウンドチューニングと相まって、その走りが一部のマニアを狂喜乱舞させた。

限定わずかに200台。エンジンだけじゃない。フロントフェンダーは富田のこだわりで大好きな300SL風のオーバーフェンダーが装備されていた。スポイラーやウィングのディテールにも凝っている。トミーカイラ史上、最も採算の合わなかった企画でもあった。富田のチャレンジ魂が生んだ執念の1台だと言っていい。ちなみに、このモデルの発表直後、R32GT-Rベースのコンプリートカー開発に日産からの許可が降りてきた。

橋本聖子とトミーカイラ

バブル経済崩壊の直前、もう1台のスペシャルなコンプリートカーが誕生している。M30Z、そうフェアレディZベースのトミーカイラだ。

このクルマは“日本初”の偉業を達成している。当時、メーカー製の高性能車といえば最高出力を280psに自主規制していた。NSXも、GT-RもGTOも、そしてZ32もエンジンの種類に関わらず280psだった(このことがその後の国産スポーツカーの進化に悪影響を及ぼしたと筆者は思っている)。実はトミーカイラM30Zは国産車で初めて300馬力の壁を越えたのみならず、350psで運輸省の改造申請をクリアしていたのだ。

発表後、富田のもとにある人物から連絡が入る。スピードスケートの女王で現参議院議員の橋本聖子だった。その内容は、M30Zが欲しい、オリンピックでメダルが取れたら買っていいと監督から言われた、というものだった。

92年アルベールビル冬季五輪。橋本はスピードスケート1500mで見事に銅メダルを獲得する。数日後、パリにいた橋本から富田に直接オーダーの連絡が入った。

数カ月のち、橋本はスピードスケート男子のホープ黒岩彰を伴って自ら京都までM30Zを引き取りにやってきた。黒岩もまたスカイラインベースのM30を気に入ってその場でオーダーしたという。

話題のアスリートのオーダーである。未だ知る人ぞ知るといったブランド名を全国へ広める絶好のチャンスだったが、富田はそれをしなかった。橋本や黒岩と公にしないと約束し、マスコミにも伏せて静かな納車式を行なった。

M30Zは自動車雑誌の取材で最高速度290km/hを記録している。

92年正月、役員会にて

話は少し戻って91年正月のこと。恒例の年頭役員会において重要な決断が下された。「オリジナルスポーツカーの開発」である。

突然振って湧いた話ではもちろんなかった。富田には昔からオリジナルスポーツカー開発への野望があった。アルピーヌA110を輸入したときにも、「これなら造れるかも」と分不相応にも思ったものだ。その心のうちを口に出すことなどほとんどなかったが、思いは熱く秘められていた。

初代M30が日本初の公認チューンドカーとしてデビューしたときも、あるテレビの取材で女性リポーターから将来の夢を聞かれ、富田はこう応えている。「小さくて可愛らしくて動物的な愛情を感じるクルマを造りたい」。オリジナルスポーツカーの開発は彼の想像力が培った最大の夢であり目標であった。

レースエンジニアだった解良喜久雄をトミタ夢工場に引き入れたのも実はその布石であった。

そんな富田の秘めたる思いを当時常務だった解良が汲み、仕事始めの役員会で提案した。富田もまたその熱い思いを吐き出した。決断はもちろん、「オリジナルスポーツカーを造ろう」。

チューニングカービジネスを発展させてきた一方で、富田は大メーカーに振り回される悲哀も存分に味わっていた。相手は巨大な組織であり、今は味方になってくれる人がいても将来は分からない。経営や株主が変われば方針も変わる。別の柱が必要だと思っていた。それも自らの技術力を存分にアピールできるような柱だ。その答がオリジナルスポーツカーの量産であった。

「会社が潰れるかもしれない」。富田は一瞬そう思ったという。けれどもいちど決めたことは絶対に成し遂げるのが富田の流儀だ。かくしてトミタ夢工場のオリジナルスポーツカープロジェクトは動き出す。

会社トップのジジィたちが何やら始めたぞ!

何やら社長たちがこそこそ始めた……。まもなく社員たちもそれまでとは違う空気を感じ始めていた。毎週月曜の朝に開かれていたプロジェクトの報告会兼役員会を、誰かが“今朝もジジィの会、熱心にやってはるな”などと言うようになっていた。ジジィか。それええな。富田はそう思った。

何としても50歳までにオリジナルスポーツカーを走らせたい。1945年生まれの富田はそう決めていた。あいにくバブル経済が崩壊し、景気は悪くなる一方であったが、諦めることはなかった。引き返すことなどありえなかった。

基本のコンセプトは早々に決まった。解良がレーシングカーエンジニア時代から暖めてきたアイデアである革新的な“アルミ押し出し材モノコックシャシー”を基本に、日産のパワートレーンを使った軽量コンパクトなオープン2シータースポーツカーとなった。パワートレーンの選択に関していえば、トミタ夢工場と日産の当時の深い関係から、それ以外のチョイスなどありえなかった。事実、日産からトミタ夢工場に供出されたSR20ユニットは、公言を憚るほど安価なものだった。たとえば完成エンジン代は、パーツ代のおよそ8分の1だったというから驚くほかない。

京都府亀岡市に開発拠点を置いた。クルマの運送で世話になった会社の倉庫を借りたのだ。

プロトタイプシャシーが完成したのは94年のことだった。

PROFILE
西川 淳
スズキ ジムニーからランボルギーニ カウンタックまで幅広く愛するモータージャーナリスト。富田氏との付き合いも長く、現在自身が京都に居を構えていることから、富田氏とは今も多くの時間を共有している。

(次回予告)
完成したプロトタイプシャシーをいよいよ試す日がやってきた。果たしてその完成度はいかに? プロジェクトを開発から一貫して取材していたメディアの存在が後にそのスポーツカーの評価をさらに高めることになる。さらにそのシャシーに被せるスタイリングの開発には紆余曲折があった。次号、オリジナルスポーツカー、ついに発進だ。

文・西川 淳 編集・iconic

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2020年2月26日 (水)

車お宝話(522)自動車メーカーになった男 15話







CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第15回



前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。








発表前夜に起きたアクシデント

1980年代の大手メーカーには絶対に手の出せない領域だった“チューンドカー”=クルマ好きの眼鏡に叶う性能とデザインをもつユニークな少量生産車。しかもそのクルマは大手メーカーの協力を得て、車体はもちろんパーツに至るまで供給され量産も視野に入れる。つまり巷にあふれた違法改造車とは根本的に違う存在。購入後のアフターサービスも充実させる。これなら絶対に話題になる。富田はそう確信した。




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前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。

しかも富田は「ハルトゲ・スカイライン」構想=輸出用の3リットル直6エンジン(RB30)ブロックに2リットルRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮するストレート6を積む、を上回るスペックを実現しようとした。そうして生まれたのが240psを発揮する“トミーカイラ・M30”だった。

トミーカイラブランドを広める最大のチャンス。富田は大々的な発表会を企画し多くのマスコミに招待状を送った。すると間もなく運輸省からクレームが入った。招待状の文面に間違いがあって大阪支局の担当官が激怒しているというのだ。おそらくチューンドカーのお上公認という前代未聞の出来事に運輸省にもマスコミからの取材が入ったため分かったのだろう。



実は当時の運輸省のトミーカイラM30に対する判断は“認可”ではなくあくまでも“届け出”を受理したということだった。ところが招待状には認可されたとあったのだ。富田たちには“認可”と“届け出”の違いすら分からなかった。このままではまたしてもすべては水の泡となってしまう。しかも実現の寸前で……。


富田は役所の閉まる17時が過ぎていたにも関わらず一か八かで大阪支局に駆け込んだ。守衛をくどき落とし幸いにも在局していた担当官に取り次いでもらう。自らの無知を詫び、必死に話すこと半時間。何をどう話したのか富田にはほとんど記憶がない。けれども担当官の怒りは奇跡的に和らぎ、訂正文の見本まで作ってくれた。

富田に、そしてトミーカイラM30にも、運があったというわけだった。





大きなニュースとなったM30発表会

ドイツのAMG本社を訪問してから7年が経っていた。ついに富田もアウトレヒト(AMG創業者)と同じ土俵に立つことになったのだ。

トミーカイラM30の発表会は日産アプリーテという荻窪にあった関連会社で行なわれた。そこのトップが富田と親しくしてくれていたからだった。本社への根回しも万全だった。日産の勢力圏で発表会を開催できたことが幸いし、テレビや新聞といった今までなら関心をもたないマスコミが富田のプロジェクトを好意的に報じてくれた。曰く、「改造車が市民権を得た」。運輸省と日産という大組織の“お墨付き”の効果はそれほどまでに絶大だったのだ。



クルマ専門メディアはさらに高く評価してくれた。「日本初の公認チューニングコンストラクター」というタイトルに、富田はやっとここまで来た、ひとつの夢が叶ったと素直に喜んだ。

トミーカイラM30の評判も上々だった。多くの専門メディアがテストを望んだ。当時の日産スカイラインは2リットルがメインで最上級グレードはターボ付きとはいえ190馬力だった。それにひきかえM30は自然吸気ながら3リットルエンジンが240馬力を叩き出す。パワーコントロールのしやすさ、シャシー性能の高さに熟練のレーシングドライバーも高い評価を与えている。

富田の目論みどおり、トミーカイラブランドが一躍、その名を馳せたのだった。




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ギャラリー:自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第15回

前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。



続いて開発されたシルビア、シーマ

1980年代後半。日本はバブル経済のまっただ中にあった。日産にもたっぷり余力があった。セドリック・グロリアの上をいく3ナンバー専用の高級車まで登場し、「シーマ現象」を引き起こす。高級車ブームが到来した。

日産でシーマのマーケティング担当だった人物がトミーカイラ担当を兼ねていた。自然とシーマベースのトミーカイラプロジェクトも企画され、M30Cというチューニングカーが誕生する。エンジンパワーアップ(280馬力)に専用エアロパーツ、高価な本木目ダッシュパネル(オプション)などをおごった、AMGに対抗する高額なコンプリートカーだった。

当時、日産の人気モデルだったシルビアをベースにトミーカイラM18Si、18SiRというモデルも開発した。日産のスペシャリティカーや高級車が人気だったからこそ、トミーカイラの各モデルも話題になったと言っていい。



以降、マーチやプリメーラ、フェアレディZといった他の日産車をベースにしたトミーカイラモデルも続々登場したのだった。



熱意が結ばれて実現した京都大覚寺での披露

東京で開催されたトミーカイラM30の発表会は大盛況だった。けれども富田にはやり残したことがあった。本当はトミーカイラの本拠地である京都に多くのメディアを呼びたいと思っていたのだった。



メディアが好意的に取り上げてくれさえすれば費用対効果は抜群であることを、富田はマハラジャや日産アプリーテといった過去のイベント主催で経験していた。日産アプリーテでのM30発表会は広告費換算で当時1.4億円近かったと日産関係者が教えてくれたという。

何とか京都に多くのメディアを呼べないものか。富田は考えた。わざわざ京都まで来てもらうためには今までにない趣向を凝らさなければならない。そこで思いついたのが、春の京都らしさを満喫してもらうという企画だった。

京都の春といえば桜。桜の咲き誇る有名な場所で、お茶や琴、着物、船遊び……そんなことをできる場所は大覚寺しかない。富田はそう思い込んだ。

旧嵯峨御所である。華道や茶道など文化事業ならいざ知らず、私企業のクルマを並べるイベントなどにそう易々と貸し出してもらえるような場所ではない。それでも富田は直談判に向かった。ダメ元などという軽い気持ちではない。絶対にやってもらうという覚悟で門を潜ったのだった。



多少のツテもあったので門前払いは免れた。けれども応対に出た渉外担当の僧侶は当然ながら100%断るつもりだったという。けれどもあまりに熱心に夢を語る富田にあろうことか根負けをしてしまった。どころか富田のプランである船遊びのために抜いてあった池に水まで入れてくれることになった。

M30やM30C、M18を並べた前代未聞の大覚寺イベントは、多数のメディアで賑わった。茶をたて、琴を奏でて、船を浮かべた。桜が咲き誇っていた。大盛況であった。

(次回予告)
日産スカイラインに始まった国産車ベースのチューニングカー事業は順調に成長を続けた。トミタ夢工場の事業構想もますます膨らんで、富田はいよいよオリジナルスポーツカー開発へと舵を切る。日本のバブル経済は崩壊したが富田の夢は決してはじけることはなかった。



文・西川 淳 編集・iconic







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2020年2月 3日 (月)

車お宝話(521)自動車メーカーになった男 14話

 

 

 

Yoshikazu Tomita (No.14)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第14回

前回までのあらすじ──サニーとスカイラインで日産とトミーカイラとのコラボは順調に進み始めたかのようにみえた。富田はこれきっかけにトミーカイラブランドを育て、トミタ夢工場でオリジナルカーを造るという夢を描き始めていた。人・金・モノ、すべてに圧倒的な大企業においてトップダウンの特別待遇を得た富田だったが、そこには予期せぬ落とし穴がいくつも待っていた。

幻と終わったハルトゲ・スカイライン。ヨーロピアン・コレクションではハルトゲのロゴは消えてしまった。

クルマを良くしたい思いが裏目に

輸出用の3リッター直6エンジン(RB30)ブロックに2リッターRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮する直6を積んだ「ハルトゲ・スカイラインHS30」構想を提案し始めた頃から、富田らに対する日産社内の風当たりが強くなっていた。

ある時、担当者が重い口を開く。富田たちのプランを日産の社員たちは裏で『ウルトラCプロジェクト』などと呼んでいた。奇異の目で見られているというのだ。要するに富田たちは日産自動車の玄関を間違って入り、逆向きに突っ走っていてみんな迷惑に思っているのだ、と。富田としては右も左も分からず、ただクルマを良くしたい一念で走ってきただけだったが、それは組織のなかで必ずしも機能する方法ではなかった。

組織には理解者や協力者がひとりでも多くいた方が良い。そう気づかされた富田は翌日から仕事のやり方を180度変えた。通常の手順を踏んだ。役員から呼びかけてもらうのではなく、受付カウンターに寄って面会カードを書き担当者を呼んでもらうことから始めた。そして会ったひとりひとりにチューニングカービジネスについていろんな角度から丁寧に説明した。たとえ分かってもらえなくても相手と打ち解ける努力をしたのだった。

幻となったハルトゲ・スカイライン

地味な努力で富田たちの理解者が増え始めたというのに、肝心の“ハルトゲ・スカイライン”プロジェクトの雲行きはいっそう怪しくなっていく。実はプロジェクトに対する執拗な反対工作が裏で行なわれていたのだった。

原因はトミタ夢工場のレース活動にあった。長坂尚樹選手を擁する富田の会社は85年に始まった全日本ツーリングカー選手権(JTC)にハルトゲBMWで出場し、見事シリーズチャンピオンに輝いていた。これがある人物の逆鱗に触れたのだ。実はその年のJAF主催年間表彰式において富田はその人物から「絶対にハルトゲ・スカイラインなど認めない」と宣言されていた。

富田が日産と関わるきっかけとなった、R31型スカイラインの2ドアクーペ。4ドアモデルで芳しくなかった評判を取り戻すため、試作段階から富田が携わった。

その人物とは日産社内に幅広い人脈と影響力をもっていた難波靖治ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)初代社長である。

結局、富田の“ハルトゲ・スカイライン”構想が実を結ぶことはなかった。それでも地道に造り上げた富田の社内人脈が功を奏したのか、富田の企画はスカイライン「ヨーロピアン・コレクション」として、日産本体ではなくプリンス自販とのコラボレーションという形で実現する。もっとも「ヨーロピアン・コレクション」そのものはチューニングカーではなく、単なるドレスアップカーであったが……。

さらに87年には富田の企画によく似た“スカイラインGTSニスモバージョン”も登場しているから、一連の出来事はユーザーの存在を無視した、子会社社長のメンツをかけた日産社内の単なる抗争でしかなかったのだった。

のちのトミーカイラ・M30に採用されたと思われるエンジンの写真。実際に搭載されたものかは定かではないが、すでにM30のロゴが刻まれている。

櫻井眞一郎との出会い

“ハルトゲ・スカイライン”計画が暗礁に乗り上げそうになった頃、富田はミスタースカイラインこと櫻井眞一郎とも会っている。

それは当時の副社長がセッティングした食事会だった。突然自分の縄張りに殴り込んで来た若造に当然ながら櫻井はいい印象を持っていなかった。当時の櫻井は商品企画室において車両開発を統括する部長で、富田より20歳近くも年上だった。

会食は気まずい雰囲気で進んだ。ふたりの意見はことごとく真っ向から対立する。食事が終わると二人は互いを認め合うことなく早々に席を立とうとした。

こちらはスカイラインのインテリアカット。富田はブログ内で、すでにほぼ完成したスカイライン2ドアクーペに対し、メーターパネルやシートなど、内装などにもアイディアを提供したと綴っている。

富田が櫻井に別れの挨拶がてら病み上がりだった櫻井の体調を気遣ったときだった。櫻井がそのときの病で「三途の川」を渡りかけたという話を返すと、富田もまた過去に「三途の川」を見た話で応えた。生死をさまようという非常な経験がふたりを急速に近づける。会が終わっても二人は話し続けた。櫻井が富田をホテルまでクルマで送ったのだが、すっかり打ち解けた二人はなんと朝までそのクルマのなかで話し込んだのだった。

櫻井はプリンス出身で、日産生え抜きの難波とは同い年だった。「富田さん、難波さんは頑固一徹で軍人のような人だ。いちどボクが掛け合ってみよう」とまで言ってくれた。

結局、櫻井の助太刀も空しく難波は最後まで首を縦に振ることはなかった。富田のプロジェクトは闇に葬られてしまったが、人の縁というものの素晴らしさに感動した若い富田は決意を新たにする。

マイナスをプラスに変えろ!

やはり自前のブランドを育てるほかない。トミーカイラの認知を広め、自分の好きなようにチューニングカービジネスを展開していきたい。言ってみれば原点に立ち戻った富田は“ハルトゲ・スカイライン”企画をそのまま“トミーカイラ・スカイライン”計画へと変更した。88年に日本初の市販公認チューニングカーとして発表された「トミーカイラM30」である。

富田の動きは早かった。ハルトゲが不可能ならトミーカイラブランドで計画を引き継ぎたいと日産の上層部に申し出る。ベース車両はもちろん輸出用エンジンブロックなど純正パーツの供給などを要請すると、ハルトゲプロジェクトの負い目もあったのだろう、上層部は快く引き受けた。日産としてもモデル末期の迫る7代目スカイラインが話題になればという思いがあった(M30発表の1年後にR32スカイラインがデビューする)。マイナスをプラスに変える富田お得意の戦略が功を奏したのだった。

富田は“ハルトゲ・スカイライン”計画を上回る性能を狙うことに決めた。解良喜久雄をはじめとするトミタ夢工場の技術力を信じていたし、千載一遇のチャンスをブランド飛躍の好機と捉えていたからだ。けれどもそこには越えるべき巨大な壁がもうひとつあった。その壁を越えなければ、日産の協力はありえない。

その壁とは運輸省(当時)である。自動車の改造が御法度だった時代に、自動車メーカーが造ったクルマを改造して売ることを“お上”が認めるなど誰も想像できない時代でもあった。

(次回予告)
ハルトゲ・スカイライン計画が水の泡となったことで、富田は逆にまたとないチャンスを得た。日本初の市販公認チューニングカーを造るというチャンスだった。それはまたオリジナルブランドであるトミーカイラを確立できる機会でもあった。紆余曲折を経て発表にこぎつけた事実上ブランド初の市販公認チューニングカー“トミーカイラM30”とはいったいどんなクルマだったのだろうか。

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2019年11月25日 (月)

車お宝話(519)自動車メーカーになった男 12話











Yoshikazu Tomita (No.12)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第12回



前回までのあらすじ──80年代に入ってトミタオートはチューニングカービジネスに乗り出し、ドイツの名門ブランドを扱った。しかし富田の野望はいつか日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ること。オリジナルブランド、トミーカイラ発足をついに決意する。時を同じくして富田の元へと突如、日産自動車のシークレット部隊が現れた。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなことから始まったのだ。


Yoshikazu Tomita (No.12)






祇園の料亭に集った男たち

東京からとんぼ返りをし、慌てて向かった祇園の有名料亭“和久でん”。そこで待ちかまえていたのは、ひとりを除いて見知らぬスーツ姿の男性たちだった。けれども富田はそこによく知るひとりの男を発見する。親友であり、兄貴分であり、父のように慕う清水輝久だった。

清水は富田が20歳のころに半年ほど務めた日産サニー京都の社長である。富田が会社をやめたのち、十数年間、ふたりの間の縁は切れていたのだが、清水がボランティアで運営する異業種交流サロン「ヒューマンハーバー」で再会をはたすと、立場を超えてたちまち意気投合した。清水は、ときには父親を知らない富田の親代わりになったし、ときには何でも相談できる頼もしい兄貴分でもあった。富田にとっては最高の親友であり、人生の師匠というべき存在である。

原付の50ccエンジンを使って童夢と開発した「コメット」。バックもできる一人乗りのモビリティで、当初は原付免許で運転できるのが売りだった。



オーナー社長の清水は、日産本社の社長や役員とは麻雀仲間だったといい、いつでもダイレクトに話ができるような人物でもあった。清水は当時の社長(石原俊)に、「京都にいる富田とレーサーの松本(恵二氏・故人)、童夢の林の3人を(日産陣営へ)早めに囲っておいたほうがいい」と、富田たちには内緒で伝えていた。その結果がこの日の会合というわけだった。



この日、極秘裏に祇園で集まった関係者たちは、当時の日産社内で絶大な力をもっていた宣伝部長を筆頭に代理店(博報堂)の担当部長など、総勢10名あまり。“日産の富田”が動き出した瞬間だった。





のちにスズキも同様の乗り物を出したが、法改正で普通免許でないと乗れなくなってしまい、利点を活かせなくなってしまった。


モノ造りの原点

結局、富田と松本は日産と契約する。松本はその後、日産でル・マンを戦った。40歳になった富田はというと、京都のガイシャ屋からいきなり日本の大企業との付き合いがはじまって、まるで未知の世界に飛び込んだかのような日々を送り始めた。



もっとも、富田自身にモノ造りの経験がなかったわけじゃない。否、むしろ、持ち前のアイデアと実行力があったからこそ、日産という大企業にも認められる存在になったと言っていい。



30歳のころには後にポケバイへと発展し大ブームを巻き起こすマイクロバイク“チッパー”を制作販売しスマッシュヒットを放っていたし、童夢と共同で開発した原付バイク用50ccエンジンを積んだマイクロカー“コメット”は確実に時代の先を走っていた。コメットなどはあまりの経済性の高さに大手メーカーが目をつけた。途端、普通免許でしか運転できなくするという“お上”からのお達しが出てしまう。報道番組のニュースステーションが特番でとりあげるなど味方もあったが、お上の決定が覆ることはなかった。



富田は、この国での新しい挑戦には常にとてつもない困難が伴うということを、すでに身を以て経験していたのだった。



オリジナルのターボシステム

80年代当時、自動車販売をメインとする会社が独自で用品を販売したり開発したりすることはまだ珍しかった。富田が用品の開発に乗り出したのは、アメリカのBAE社製ターボシステムを輸入したことがきっかけだった。



その頃、ターボは高性能の証として日本でもブームになりつつあったが、BAE社製のシステムはいわゆる“ドッカンターボ”でパワーは出るがとても扱いづらいシロモノだった。なんとかもっと運転しやすく、取り付けも容易で、価格を抑えたターボシステムができないものだろうか。無いなら自分たちで造ればいい。持ち前のチャレンジ精神が富田を動かした。




もともとバイクが好きであった富田が初期に作った作品の「チッパー」。ポケバイの先駆け的製品であり、当時富田はまだ幼い息子をモデルにカタログを製作した。なお、エンジンには芝刈り機のエンジンを使っている。




こうして生まれたのがオリジナルシステムの“ターボ疾風”だ。このとき富田は、F2のトップレーサーで“メイジュ”というカーショップを京都北山で開いていた松本とターボ疾風を開発した林みのるの童夢とともに、MTD(メイジュ+富田+童夢)という用品開発および販売の別会社も設立している。社名の命名法に、富田のAMGに対する憧れと尊敬が透けてみえるようで面白い。




童夢に依頼して制作したtomita auto製の「ターボ疾風」。タイムラグの少ないターボシステムをコンセプトに開発し、価格の低さや取り付けやすさも売りだった。




ちなみに、富田はこのとき最初で最後のレースチーム監督を務めている。トミタオートがフルスポンサーとなってMTDカラ ーのF3マシンを走らせることになったからだ。ドライバーはハヤシレーシング(林みのるの従兄・将一の経営)の社員だった新人の小河等。「F3に乗れるなら何でもやる。食っていけなくても水だけ飲んで頑張る」。自分と同じメカ上がりで生真面目な小河のハングリーさに富田はほだされた。小河はその後、日本のトップレーサーとして活躍することになる。

 

トミーカイラ誕生前夜

ハルトゲジャパンが設立される少し前に、以前から知り合いだったコジマF1のエンジニア、解良喜久雄がトミタオートに入社している。解良の才能を見込んだ富田は早くからオリジナルブランド“トミーカイラ”の名前を思いついていたが、それをいきなり発表することはなかった。





富田の戦略は巧妙だった。AMGからチューニングカービジネスのノウハウを学び、ハルトゲで実際の開発と販売を経験して、トミタオートの名を日本のクルマ好きに広く知らしめてから、オリジナルブランドの展開を計ろうとしたのだ。

世界に通用する高品質な高性能車が国産メーカーになかったゆえ、ヨーロッパの高性能車信奉がとても強かった時代で、そのうえチューニングに対する理解もまるでなかった。富田は、高性能車の代表格であったM・ベンツとBMWのチューニングモデルを積極的に扱うことで、ベースとすべき高性能国産車の出現を待ちながら、チューニングカーというカテゴリーをまずは日本に浸透させる作戦に出たというわけである。






ターボ疾風を搭載したメルセデス・ベンツの280SE。当時はターボカスタムは邪道という風潮で、普及に苦労したという。


おりもおり、冒頭にも書いたように日産との協業が降って湧く。ハルトゲブランドを日産車にも活用しようという富田の戦略は思ってもみない方向へと進み、結果的に“トミーカイラ”というブランドを世に送りだすキッカケとなった。




当時のカタログ表紙にも掲載しており、スーパーカーを押しのけてこの280SEとターボをプッシュしていた。




(次回予告)

トミーカイラブランドの誕生と日産とのプロジェクトは、切っても切れない関係にある。そこで富田は異次元の世界を垣間みた。中古外車屋の社長が大企業の商品開発に関わるという前代未聞の事態はさまざまな化学反応をおこし、結果的にトミーカイラが飛躍するキッカケとなる。次回は日産とのプロジェクトで、富田にとってもキーポイントとなったスカイラインの開発秘話に迫る。

文・西川 淳 編集・iconic

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2019年10月28日 (月)

車お宝話(518)自動車メーカーになった男 11話

Yoshikazu Tomita (No.11)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第11回

前回までのあらすじ──当時はまだ珍しかったチューニングカービジネスに乗り出したトミタオート。AMGの総代理店となった富田が次に目をつけたのはBMWをベースに使うハルトゲだった。そして、富田が暖めていた野望は、日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ることである。“改造車”=暴走族御用達というイメージだった時代に、それは無謀な挑戦にもみえた……。

当時六本木のカローラと呼ばれ、若者に絶大な人気を誇っていたBMW。そんなBMWのチューニングカーが、ホットスポットであるマハラジャで展示されていたのだから、いやでも注目を集めた。

AMGからハルトゲへ

AMGと契約して2、3年が経ったころ、東京のとある会社が「AMGの商標登録をしたから使うな」、と突然言ってきた。商標登録することなど、富田の意識になかったのだ。そこで富田はAMGを諦め、違うブランドを探し始める。そうして見つけたのがBMWベースのチューニングカーを作っていたハルトゲだった。

こんどはぬかりがなかった。商標登録はもちろん、株式会社ハルトゲジャパンを設立し、輸入代理店として本格的な活動体制を整えたのだ。この頃、後にオリジナルカー開発において重要な役割を果たすエンジニアの解良喜久雄がトミタオートに合流している。国産F1マシン「KE007」のメカニックを担当した人物だった。

AMGとのビジネスはまだ実験的なものだった。パーツのみを輸入してユーザー向けに組み付けることが主だったのだ。ハルトゲではそれをもう一歩、発展させたいと富田は考えた。アルピーヌA108を見て「これなら造れる!」と思った頃の怖いもの知らずの気概が、当時の富田にはまだあった。

AMGに続きハルトゲでもブランディングにこだわったのは、富田がブランドこそが最大の資産だと感じていたから。富田は今もこの学びを講演などでの大きな柱にしているという。

ハルトゲジャパンとマハラジャ

誰も知らない、もちろん富田さえも知らなかったハルトゲブランド。日本中のクルマ好きに認知してもらうべく富田が取った戦略もまた、当時の輸入車販売業界では異例のことだった。

1984年のこと、社会現象となっていたディスコ“マハラジャ”でハルトゲブランドの発表会を行ったのだ。ハルトゲというブランドを披露しただけじゃない。BMW635CSiをベースとしたグループAマシンで日本のツーリングカー選手権に参戦することも発表した。その日、マハラジャは“ハルトゲの日”となり、多数の有名人が駆けつけ、またテレビや新聞など多くのメディアに取り上げられて、ハルトゲは瞬時にして日本中のクルマ好きに知れ渡ったのだった。

その後もハルトゲはマハラジャに展示された。マハラジャが全国展開すると、ハルトゲも帯同し、知名度は益々上がっていく。BMWベースのチューニングカーであるという認知も広がった。マハラジャとハルトゲのコラボレーションステッカーが人気を呼ぶなど、ハルトゲの“眠らない”マハラジャ・ショールームもまたひとつの社会現象となっていた。

全日本ツーリングカー選手権を制す

クルマ好きの間でハルトゲという名前がいっきに浸透した理由は、なにもマハラジャで飾っていたからだけではなかった。そのパフォーマンスもまた、クルマ好きを魅了したのだ。

1985年に始まった全日本ツーリングカー選手権グループAにおいて、ハルトゲBMW635CSiが見事に年間チャンピオンに輝いたのだった。けれどもこの実績が後に自分を苦しめることになろうとは、夢にも思わなかった。

マハラジャのスタッフが着用していた赤いコスチューム。イベントの際も大々的にコラボしてマハラジャ×ハルトゲの世界観を打ち出した。

マハラジャとコラボレーションすることで、チューニングカーの世界をそれまでになくオシャレで華やかなものとして演出してみせた富田だったが、その一方で、パフォーマンスにはこだわり続けていた。

ディスコとサーキット。硬軟織り交ぜた富田の戦略は、後のラクシャリーとパフォーマンス、ソフトとハードを融合したマーケティングの先鞭をつけるものだったのだ。

やっぱり自分で造りたい

しょせん、人が造ったブランド。AMGとハルトゲを日本に紹介した富田だったが、常にそんな思いがくすぶっていた。もちろん、いつかは日本車をベースにやってみたいという思いもあったのだが、輸入車販売が本業という立ち位置は変わっておらず、FAIA(外国自動車輸入協同組合、主に並行輸入業者の集まり)の企画委員長を務めるなど、多忙を極めていた。

ある日、FAIAの会議で東京へ出張していた富田に京都のオフィスから連絡が入った。東京から日産自動車の人間が数名突然やってきて「社長に会いたい」と言っているらしい。帰りは明日だと伝えたが、それなら「明日まで待っている」、という。

サイドにあしらわれたストライプは、のちのトミーカイラブランドにも通じるデザイン。国産チューニングカーへとファンを自然と流入させるためにこのような戦略をとった。

いったい大メーカーの日産が自分に何の用があるのだろう?全く心当たりもないまま、富田は用事を切り上げて京都へトンボ帰りすることに。急いで戻ってみれば、オフィスに伝言があった。円山公園に近い有名料亭で待っているという。

料亭の部屋に入ってみれば、そこには10名近くの関係者が待っていた。その中に富田が最も世話になった人物の顔を見つけて、富田はただ事ではないと知る。

次回予告

富田の元へと突如現れた日産自動車のシークレット部隊。富田の親友であり、兄貴分であり、師匠でもあった人間が日産のトップと話をつけて始まった物語だった。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなところから始まろうとしていた。日産という大企業の懐に飛び込んだ富田。すべてが順調に進んでいたかに見えたが、そこに立ちふさがったのは“日本の大企業”そのものだった。

文・西川 淳 編集・iconic

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2019年10月10日 (木)

車お宝話(517)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る 3

秋晴れの気持ちいい空気の中を、「ZZ」と僕は快調に走っている。

久々のマニュアル車、5速ミッションを回転を合わせながら走る楽しさは格別!

天気もいいし、車は好調だし、昨日までのモヤモヤは吹っ飛んでしまった。

柄にもない、僕の一番嫌いな言葉「撮り越し苦労」が杞憂に終わったということ!

そんなことを考えながら、立派なアーケードの中をパレードしながら、

ひとりほくそんでいたら、しばし展示を兼ねた休憩ということに・・・

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朝の8時半にスタートしてから、すでに3時間ほど経て、昼前になっている。

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白石君にぼちぼちドライバー交代をと告げると、待ってました、といい返事!

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流石は白石君、手慣れた動作で「ZZ」を走らす。

彼も普段は赤い「ZZ-EV」のオーナーで、「ZZ」の事はことさら好きなのだとか!

彼の素顔はレーシングドライバーの他に、レーシングシュミレーターの設計、製作

まで、自分でするという稀な才能を持つ。

午後からは助手席で白石君のナビ、と言っても、一度もナビをした経験がない!

当の彼も、そんなことは先刻承知とばかりに、僕などあてにせず、ひとりでこなす。

曲がりくねった山道を、ほんとうに楽しそうに「いいですね~ ZZ」って言いながら、

すっ飛んで行く・・・

そんな彼を横目に、早く僕も運転したいな~って!

もうこうなったら、若い頃に戻った気持ちで、「ZZ」を目一杯楽しむぞ~・・・!

どこに行っても、どこを走っても、沿道の人が温かい笑顔で手を振ってくれてる。

もちろんチェックポイントには大勢の人が待ってくれているし、まいど、毎度、

お土産や、飲み物を用意してくれているのには、頭が下がる・・・

PC競技場では朝に聞いていた鳥取の「ZZ」オーナーさんが待ってくれていて、

早速ボンネットの中と色紙にサイン、シルバーの綺麗な車で20年ほど大事に

されているとのこと!

今回はトミーカイラが初登場ということで、結構あちこちで歓迎を受けたけど!

別の休憩のとき、大学教授風の方がやってきて、富田さんですかと!

今日はこの「ZZ」だけがお目当てで来ました、と言われた時はうれしかったな~・・・

岡山県挙げてのイベントだから、エントリーリストや、パンフレットが隅々まで

行き渡っている。

もちろん地元テレビでも案内がされているので、どこを何時ぐらいに走ってくるかも

みなさんよく御存じなのだ!

そんな楽しい1日目を堪能して、宿泊先の温泉へ!

2日目

昨日と違って肌寒い朝、なぜか昨今話題の、ラグビー場からの出発。

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前日と違って鳥取大山の麓を走るコースが多い!

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当然雨の心配も、と思っていたら、雨が降ってきた・・・

道路脇に止めてトップを装着、気温が16度で雨の山麓と来ては寒くてしょうがない!

ヒーターSWを入れて、これでよし、ワイパーも奇麗に掃くし問題なし!

オーナーズクラブにもらったトミーカイラのブルゾンを着て完了。

トップさえ付いていれば、多少の雨はなんとかなる・・・

そんな調子で相変わらず楽しく、走っていたら、雨が止んだ・・・

雨のお蔭で貴重な体験もできた、トップを付けたことも、ヒーターを

入れたことも、雨の走りも、初めてだったんだから!

PC競技を幾つかこなして、全ての競技を終え、あとは帰るだけ。

ゴールの岡山国際ホテルまでは、ナビで行こうということに!

すると偶然にも目の前に、最新のポルシェGTSが!

細い山道を、白石君んは何食わぬ顔でGTSを追い詰める・・・

まぁ、親バカの依怙贔屓きもあるだろうけど、

やっぱり「ZZ」は素晴らしい!

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