2019年11月25日 (月)

車お宝話(519)自動車メーカーになった男 12話











Yoshikazu Tomita (No.12)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第12回



前回までのあらすじ──80年代に入ってトミタオートはチューニングカービジネスに乗り出し、ドイツの名門ブランドを扱った。しかし富田の野望はいつか日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ること。オリジナルブランド、トミーカイラ発足をついに決意する。時を同じくして富田の元へと突如、日産自動車のシークレット部隊が現れた。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなことから始まったのだ。


Yoshikazu Tomita (No.12)






祇園の料亭に集った男たち

東京からとんぼ返りをし、慌てて向かった祇園の有名料亭“和久でん”。そこで待ちかまえていたのは、ひとりを除いて見知らぬスーツ姿の男性たちだった。けれども富田はそこによく知るひとりの男を発見する。親友であり、兄貴分であり、父のように慕う清水輝久だった。

清水は富田が20歳のころに半年ほど務めた日産サニー京都の社長である。富田が会社をやめたのち、十数年間、ふたりの間の縁は切れていたのだが、清水がボランティアで運営する異業種交流サロン「ヒューマンハーバー」で再会をはたすと、立場を超えてたちまち意気投合した。清水は、ときには父親を知らない富田の親代わりになったし、ときには何でも相談できる頼もしい兄貴分でもあった。富田にとっては最高の親友であり、人生の師匠というべき存在である。

原付の50ccエンジンを使って童夢と開発した「コメット」。バックもできる一人乗りのモビリティで、当初は原付免許で運転できるのが売りだった。



オーナー社長の清水は、日産本社の社長や役員とは麻雀仲間だったといい、いつでもダイレクトに話ができるような人物でもあった。清水は当時の社長(石原俊)に、「京都にいる富田とレーサーの松本(恵二氏・故人)、童夢の林の3人を(日産陣営へ)早めに囲っておいたほうがいい」と、富田たちには内緒で伝えていた。その結果がこの日の会合というわけだった。



この日、極秘裏に祇園で集まった関係者たちは、当時の日産社内で絶大な力をもっていた宣伝部長を筆頭に代理店(博報堂)の担当部長など、総勢10名あまり。“日産の富田”が動き出した瞬間だった。





のちにスズキも同様の乗り物を出したが、法改正で普通免許でないと乗れなくなってしまい、利点を活かせなくなってしまった。


モノ造りの原点

結局、富田と松本は日産と契約する。松本はその後、日産でル・マンを戦った。40歳になった富田はというと、京都のガイシャ屋からいきなり日本の大企業との付き合いがはじまって、まるで未知の世界に飛び込んだかのような日々を送り始めた。



もっとも、富田自身にモノ造りの経験がなかったわけじゃない。否、むしろ、持ち前のアイデアと実行力があったからこそ、日産という大企業にも認められる存在になったと言っていい。



30歳のころには後にポケバイへと発展し大ブームを巻き起こすマイクロバイク“チッパー”を制作販売しスマッシュヒットを放っていたし、童夢と共同で開発した原付バイク用50ccエンジンを積んだマイクロカー“コメット”は確実に時代の先を走っていた。コメットなどはあまりの経済性の高さに大手メーカーが目をつけた。途端、普通免許でしか運転できなくするという“お上”からのお達しが出てしまう。報道番組のニュースステーションが特番でとりあげるなど味方もあったが、お上の決定が覆ることはなかった。



富田は、この国での新しい挑戦には常にとてつもない困難が伴うということを、すでに身を以て経験していたのだった。



オリジナルのターボシステム

80年代当時、自動車販売をメインとする会社が独自で用品を販売したり開発したりすることはまだ珍しかった。富田が用品の開発に乗り出したのは、アメリカのBAE社製ターボシステムを輸入したことがきっかけだった。



その頃、ターボは高性能の証として日本でもブームになりつつあったが、BAE社製のシステムはいわゆる“ドッカンターボ”でパワーは出るがとても扱いづらいシロモノだった。なんとかもっと運転しやすく、取り付けも容易で、価格を抑えたターボシステムができないものだろうか。無いなら自分たちで造ればいい。持ち前のチャレンジ精神が富田を動かした。




もともとバイクが好きであった富田が初期に作った作品の「チッパー」。ポケバイの先駆け的製品であり、当時富田はまだ幼い息子をモデルにカタログを製作した。なお、エンジンには芝刈り機のエンジンを使っている。




こうして生まれたのがオリジナルシステムの“ターボ疾風”だ。このとき富田は、F2のトップレーサーで“メイジュ”というカーショップを京都北山で開いていた松本とターボ疾風を開発した林みのるの童夢とともに、MTD(メイジュ+富田+童夢)という用品開発および販売の別会社も設立している。社名の命名法に、富田のAMGに対する憧れと尊敬が透けてみえるようで面白い。




童夢に依頼して制作したtomita auto製の「ターボ疾風」。タイムラグの少ないターボシステムをコンセプトに開発し、価格の低さや取り付けやすさも売りだった。




ちなみに、富田はこのとき最初で最後のレースチーム監督を務めている。トミタオートがフルスポンサーとなってMTDカラ ーのF3マシンを走らせることになったからだ。ドライバーはハヤシレーシング(林みのるの従兄・将一の経営)の社員だった新人の小河等。「F3に乗れるなら何でもやる。食っていけなくても水だけ飲んで頑張る」。自分と同じメカ上がりで生真面目な小河のハングリーさに富田はほだされた。小河はその後、日本のトップレーサーとして活躍することになる。

 

トミーカイラ誕生前夜

ハルトゲジャパンが設立される少し前に、以前から知り合いだったコジマF1のエンジニア、解良喜久雄がトミタオートに入社している。解良の才能を見込んだ富田は早くからオリジナルブランド“トミーカイラ”の名前を思いついていたが、それをいきなり発表することはなかった。





富田の戦略は巧妙だった。AMGからチューニングカービジネスのノウハウを学び、ハルトゲで実際の開発と販売を経験して、トミタオートの名を日本のクルマ好きに広く知らしめてから、オリジナルブランドの展開を計ろうとしたのだ。

世界に通用する高品質な高性能車が国産メーカーになかったゆえ、ヨーロッパの高性能車信奉がとても強かった時代で、そのうえチューニングに対する理解もまるでなかった。富田は、高性能車の代表格であったM・ベンツとBMWのチューニングモデルを積極的に扱うことで、ベースとすべき高性能国産車の出現を待ちながら、チューニングカーというカテゴリーをまずは日本に浸透させる作戦に出たというわけである。






ターボ疾風を搭載したメルセデス・ベンツの280SE。当時はターボカスタムは邪道という風潮で、普及に苦労したという。


おりもおり、冒頭にも書いたように日産との協業が降って湧く。ハルトゲブランドを日産車にも活用しようという富田の戦略は思ってもみない方向へと進み、結果的に“トミーカイラ”というブランドを世に送りだすキッカケとなった。




当時のカタログ表紙にも掲載しており、スーパーカーを押しのけてこの280SEとターボをプッシュしていた。




(次回予告)

トミーカイラブランドの誕生と日産とのプロジェクトは、切っても切れない関係にある。そこで富田は異次元の世界を垣間みた。中古外車屋の社長が大企業の商品開発に関わるという前代未聞の事態はさまざまな化学反応をおこし、結果的にトミーカイラが飛躍するキッカケとなる。次回は日産とのプロジェクトで、富田にとってもキーポイントとなったスカイラインの開発秘話に迫る。

文・西川 淳 編集・iconic

| | コメント (0)

2019年10月28日 (月)

車お宝話(518)自動車メーカーになった男 11話

Yoshikazu Tomita (No.11)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第11回

前回までのあらすじ──当時はまだ珍しかったチューニングカービジネスに乗り出したトミタオート。AMGの総代理店となった富田が次に目をつけたのはBMWをベースに使うハルトゲだった。そして、富田が暖めていた野望は、日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ることである。“改造車”=暴走族御用達というイメージだった時代に、それは無謀な挑戦にもみえた……。

当時六本木のカローラと呼ばれ、若者に絶大な人気を誇っていたBMW。そんなBMWのチューニングカーが、ホットスポットであるマハラジャで展示されていたのだから、いやでも注目を集めた。

AMGからハルトゲへ

AMGと契約して2、3年が経ったころ、東京のとある会社が「AMGの商標登録をしたから使うな」、と突然言ってきた。商標登録することなど、富田の意識になかったのだ。そこで富田はAMGを諦め、違うブランドを探し始める。そうして見つけたのがBMWベースのチューニングカーを作っていたハルトゲだった。

こんどはぬかりがなかった。商標登録はもちろん、株式会社ハルトゲジャパンを設立し、輸入代理店として本格的な活動体制を整えたのだ。この頃、後にオリジナルカー開発において重要な役割を果たすエンジニアの解良喜久雄がトミタオートに合流している。国産F1マシン「KE007」のメカニックを担当した人物だった。

AMGとのビジネスはまだ実験的なものだった。パーツのみを輸入してユーザー向けに組み付けることが主だったのだ。ハルトゲではそれをもう一歩、発展させたいと富田は考えた。アルピーヌA108を見て「これなら造れる!」と思った頃の怖いもの知らずの気概が、当時の富田にはまだあった。

AMGに続きハルトゲでもブランディングにこだわったのは、富田がブランドこそが最大の資産だと感じていたから。富田は今もこの学びを講演などでの大きな柱にしているという。

ハルトゲジャパンとマハラジャ

誰も知らない、もちろん富田さえも知らなかったハルトゲブランド。日本中のクルマ好きに認知してもらうべく富田が取った戦略もまた、当時の輸入車販売業界では異例のことだった。

1984年のこと、社会現象となっていたディスコ“マハラジャ”でハルトゲブランドの発表会を行ったのだ。ハルトゲというブランドを披露しただけじゃない。BMW635CSiをベースとしたグループAマシンで日本のツーリングカー選手権に参戦することも発表した。その日、マハラジャは“ハルトゲの日”となり、多数の有名人が駆けつけ、またテレビや新聞など多くのメディアに取り上げられて、ハルトゲは瞬時にして日本中のクルマ好きに知れ渡ったのだった。

その後もハルトゲはマハラジャに展示された。マハラジャが全国展開すると、ハルトゲも帯同し、知名度は益々上がっていく。BMWベースのチューニングカーであるという認知も広がった。マハラジャとハルトゲのコラボレーションステッカーが人気を呼ぶなど、ハルトゲの“眠らない”マハラジャ・ショールームもまたひとつの社会現象となっていた。

全日本ツーリングカー選手権を制す

クルマ好きの間でハルトゲという名前がいっきに浸透した理由は、なにもマハラジャで飾っていたからだけではなかった。そのパフォーマンスもまた、クルマ好きを魅了したのだ。

1985年に始まった全日本ツーリングカー選手権グループAにおいて、ハルトゲBMW635CSiが見事に年間チャンピオンに輝いたのだった。けれどもこの実績が後に自分を苦しめることになろうとは、夢にも思わなかった。

マハラジャのスタッフが着用していた赤いコスチューム。イベントの際も大々的にコラボしてマハラジャ×ハルトゲの世界観を打ち出した。

マハラジャとコラボレーションすることで、チューニングカーの世界をそれまでになくオシャレで華やかなものとして演出してみせた富田だったが、その一方で、パフォーマンスにはこだわり続けていた。

ディスコとサーキット。硬軟織り交ぜた富田の戦略は、後のラクシャリーとパフォーマンス、ソフトとハードを融合したマーケティングの先鞭をつけるものだったのだ。

やっぱり自分で造りたい

しょせん、人が造ったブランド。AMGとハルトゲを日本に紹介した富田だったが、常にそんな思いがくすぶっていた。もちろん、いつかは日本車をベースにやってみたいという思いもあったのだが、輸入車販売が本業という立ち位置は変わっておらず、FAIA(外国自動車輸入協同組合、主に並行輸入業者の集まり)の企画委員長を務めるなど、多忙を極めていた。

ある日、FAIAの会議で東京へ出張していた富田に京都のオフィスから連絡が入った。東京から日産自動車の人間が数名突然やってきて「社長に会いたい」と言っているらしい。帰りは明日だと伝えたが、それなら「明日まで待っている」、という。

サイドにあしらわれたストライプは、のちのトミーカイラブランドにも通じるデザイン。国産チューニングカーへとファンを自然と流入させるためにこのような戦略をとった。

いったい大メーカーの日産が自分に何の用があるのだろう?全く心当たりもないまま、富田は用事を切り上げて京都へトンボ帰りすることに。急いで戻ってみれば、オフィスに伝言があった。円山公園に近い有名料亭で待っているという。

料亭の部屋に入ってみれば、そこには10名近くの関係者が待っていた。その中に富田が最も世話になった人物の顔を見つけて、富田はただ事ではないと知る。

次回予告

富田の元へと突如現れた日産自動車のシークレット部隊。富田の親友であり、兄貴分であり、師匠でもあった人間が日産のトップと話をつけて始まった物語だった。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなところから始まろうとしていた。日産という大企業の懐に飛び込んだ富田。すべてが順調に進んでいたかに見えたが、そこに立ちふさがったのは“日本の大企業”そのものだった。

文・西川 淳 編集・iconic

| | コメント (0)

2019年10月10日 (木)

車お宝話(517)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る 3

秋晴れの気持ちいい空気の中を、「ZZ」と僕は快調に走っている。

久々のマニュアル車、5速ミッションを回転を合わせながら走る楽しさは格別!

天気もいいし、車は好調だし、昨日までのモヤモヤは吹っ飛んでしまった。

柄にもない、僕の一番嫌いな言葉「撮り越し苦労」が杞憂に終わったということ!

そんなことを考えながら、立派なアーケードの中をパレードしながら、

ひとりほくそんでいたら、しばし展示を兼ねた休憩ということに・・・

Img_4197_20191010183501

朝の8時半にスタートしてから、すでに3時間ほど経て、昼前になっている。

Img_4200_20191010183601

白石君にぼちぼちドライバー交代をと告げると、待ってました、といい返事!

Img_4225-2_20191010183701

流石は白石君、手慣れた動作で「ZZ」を走らす。

彼も普段は赤い「ZZ-EV」のオーナーで、「ZZ」の事はことさら好きなのだとか!

彼の素顔はレーシングドライバーの他に、レーシングシュミレーターの設計、製作

まで、自分でするという稀な才能を持つ。

午後からは助手席で白石君のナビ、と言っても、一度もナビをした経験がない!

当の彼も、そんなことは先刻承知とばかりに、僕などあてにせず、ひとりでこなす。

曲がりくねった山道を、ほんとうに楽しそうに「いいですね~ ZZ」って言いながら、

すっ飛んで行く・・・

そんな彼を横目に、早く僕も運転したいな~って!

もうこうなったら、若い頃に戻った気持ちで、「ZZ」を目一杯楽しむぞ~・・・!

どこに行っても、どこを走っても、沿道の人が温かい笑顔で手を振ってくれてる。

もちろんチェックポイントには大勢の人が待ってくれているし、まいど、毎度、

お土産や、飲み物を用意してくれているのには、頭が下がる・・・

PC競技場では朝に聞いていた鳥取の「ZZ」オーナーさんが待ってくれていて、

早速ボンネットの中と色紙にサイン、シルバーの綺麗な車で20年ほど大事に

されているとのこと!

今回はトミーカイラが初登場ということで、結構あちこちで歓迎を受けたけど!

別の休憩のとき、大学教授風の方がやってきて、富田さんですかと!

今日はこの「ZZ」だけがお目当てで来ました、と言われた時はうれしかったな~・・・

岡山県挙げてのイベントだから、エントリーリストや、パンフレットが隅々まで

行き渡っている。

もちろん地元テレビでも案内がされているので、どこを何時ぐらいに走ってくるかも

みなさんよく御存じなのだ!

そんな楽しい1日目を堪能して、宿泊先の温泉へ!

2日目

昨日と違って肌寒い朝、なぜか昨今話題の、ラグビー場からの出発。

Img_4207_20191010183901

前日と違って鳥取大山の麓を走るコースが多い!

Img_4228_20191010184001

Img_4222

当然雨の心配も、と思っていたら、雨が降ってきた・・・

道路脇に止めてトップを装着、気温が16度で雨の山麓と来ては寒くてしょうがない!

ヒーターSWを入れて、これでよし、ワイパーも奇麗に掃くし問題なし!

オーナーズクラブにもらったトミーカイラのブルゾンを着て完了。

トップさえ付いていれば、多少の雨はなんとかなる・・・

そんな調子で相変わらず楽しく、走っていたら、雨が止んだ・・・

雨のお蔭で貴重な体験もできた、トップを付けたことも、ヒーターを

入れたことも、雨の走りも、初めてだったんだから!

PC競技を幾つかこなして、全ての競技を終え、あとは帰るだけ。

ゴールの岡山国際ホテルまでは、ナビで行こうということに!

すると偶然にも目の前に、最新のポルシェGTSが!

細い山道を、白石君んは何食わぬ顔でGTSを追い詰める・・・

まぁ、親バカの依怙贔屓きもあるだろうけど、

やっぱり「ZZ」は素晴らしい!

Img_4229_20191010184201

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (3)

2019年10月 9日 (水)

車お宝話(516)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る 2

さぁ~、いよいよ出発の順番が回って来た!

この順番は年式の古い順にゼッケンナンバーが振り分けられるので、

ゼッケンナンバー順にスタートする。

概ね戦前の車が先頭集団を占めるので、100台近く出走するなかで、

僕の車は「66」番となったのだろう。

先発ドライバーを僕が務め、女性アナウンサーの車紹介のなかを、

大勢の、見送る人たちの拍手をうけ、ゆるゆるとスタートゲートをくぐる。

「そこを左へ」・・・助手席では初出場の白石君が早速コマ図を読んでいる!

僕は感慨深く「ZZ」のステアリングを握りしめ、これから2日間の期待と不安に

浸っている。

Img_4224_20191009154301

めったにないほどの快晴の中、オープンのZZは快調そのもので、

新車時に乗った感覚とほぼ変わりない!

1時間ほど走ってふと気が付けば、不安などすっかり忘れ、小気味よいシフトを

繰り返し、エクゾーストノートを楽しんでいるではないか・・・

だんだんと心の奥に潜んでいた、得体のしれない何かが表面化してきた!

「これだ」、最近までモヤモヤしていた気持ちが一瞬にして吹き飛ぶ・・・

探し求めていた何かが、いや車が見つかったのだ!

「やはり自分の人生を掛けて造った車が、稀薄になっていた心を救ってくれた」

このサイズ感で求めていたものが、軽いし、走るし、レーシー、

なにより、シフト感と、ブレーキが最高、だから楽しいし、乗っていてうれしい!

以前にも書いたが、僕は「アルピーヌA108」に乗って頭をガツンとやられ、

こんなクルマを造りたいと真剣に思って、45歳の時に開発に取り組んだ・・・

そして49歳の時に1号車が完成したのだが、造る大変さ、お金の苦労等、など、

正直その時は疲れ果てていて、本当の、この車の良さを理解できていなかった

ように思う!

Img_4200_20191009154401

あれから25年以上の時が過ぎ、純粋にこの「ZZ]の全てを知ろうと思った時、

信じられないような「感動」と、「興奮」が僕の心に戻ってきた・・・

それを素直に表現した言葉が、乗って「楽しい」「うれしい」「幸せ」となったのだろう!

1年ほど前、大好きな「アルピーヌA110」が復活したというので、1号車を買う積りで

フランスに出かけたが、一目見て、大きくなったボディにガッカリしたのを思い出す。

よかった、ほんとうに良かった、追い求めているものが見つかったのだから・・・!

つづく!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年10月 7日 (月)

車お宝話(515)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る!

久方ぶりにブログネタができたので書きます。

先日、5日、6日の土曜と日曜日に、岡山で開催されたクラシックカーラリー

ベッキオバンビーノに思い切って「トミーカイラ ZZ」で参加。

なぜ ”思い切って” と表現したかと云うと、この車の初年度登録が、

「平成9年」で、西暦でいうと「1997年」となるこの車は22年前のモデル、

なのでクラシックと呼べるかどうか疑問だったのだが、主催者側から

20年を経てれば十分ですよ、と後押ししてもらったので、”思い切って”

参加を決めたという次第!

いままで、ほぼ毎年春と秋に開催されているベッキオには5年程まえから

参加しているイベントで、それまでは、「メルセデス3.5ガブリオレ」

「ジャガーEタイプクーペ」  「パンサーJ72」  「トライアンフTR3」

「ムスタングコンバーチブル」など、交互に使用して参加していた。

景色も良く、何よりも応援してくださる県民の方々の心あたたまるもてなしに、

普段からの非日常的なこのイベントに、すっかり嵌ってしまった!

ところが、回を重ねる度に、なぜか心の底から楽しめなくなる自分もいた。

それは、僕の好きな「ポルシェ356」や「スピードスター」、「アルピーヌA110」

「アバルト」など、小さくて、かわいくて、それでいて結構楽しめる車達・・・

そんな車につい目移りしてしまい、なんとなく、そんな車達を探し始めていた。

それでも頭の中で、ああでもない、こうでもないと、スッキリしないまま時が過ぎ!

もちろん高騰している値段のこともあるが、自分が求めている何かが足りない・・・

そしてあれこれ考えているうちに、やっぱり自分の理想を追い求めた車は「ZZ」

だったことに行き着く!

それだったら、もう 初期の「ZZ」からは25年以上も経っている「ZZ」での出走は?

と考ええるに至って、最初に書いたような次第になったのだ!

とはいえ、なにせ本格的に2日間で500キロほど走るのだ・・・

自分の記憶の中にある「ZZ」は色褪せてはいないだろうか?

本当に期待に応えてくれるのだろうか・・・

そんな期待と不安が入り混じったなかで、「トミーカイラZZ・EV」開発ドライバーの

白石勇樹君と参加することに・・・

いよいよ当日、早朝の新幹線で岡山に到着、いつものスタート地点の

岡山護国神社に・・・

ゼッケン66をつけた、真っ赤な新車のような「ZZ」が待っていてくれた!

一足先に、いつもの上田君が慎重に運んでくれて、用意万端済ませて

くれている!

Img_4195  

赤い「ZZ」は全てカタログ仕様のフルノーマル車で、なんとタイヤも新車時のもの!

もちろん、車両やタイヤの点検は、京都工場の谷口君が時間を掛けて十分に

手入れしてくれている・・・

すると待ちかねたように、同じくこのイベントに参加されている方が、

友人で鳥取の「ZZ」オーナが午後のPC競技場で待っているのでよろしく

お願いしますと、丁寧にあいさつに・・・

聞けば「ZZ」のゼッケン張りやら、その他色々と上田君がお世話になったらしい!

まずは気持ちの良いスタートが切れそうな予感。

続く!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (1)

2019年9月17日 (火)

車お宝話(514)自動車メーカーになった男 10話







 

 

 

 

 


 

 










Yoshikazu Tomita (No.10)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第10回



前回までのあらすじ──自然とモータースポーツとの縁を深めた富田だったが、自動車販売という本流は頑に守り続けていた。そんななか、身近な仲間がレーシングカーを製作し世界へ挑戦する姿を見て若きころのエンジニア魂に火がつき始める。ツルシの製品を売るだけでは飽き足らなくなってきたのだ。富田が次に目をつけたのは、AMG やハルトゲといった西ドイツチューニングカーの世界。1980年代始めのことで、それらはまだ無名の存在だった


AMGとの出会い

あるとき富田は有名モーター誌を読んでいて、ひとつの記事に惹きつけられた。それは欧州のツーリングカーレースをメルセデスベンツのサルーンをベースにしたレースカーで参戦する、西ドイツのとあるチューナーに関する記事だった。チューナーの名前はAMG。今ではダイムラー・メルセデスの傘下だが、当時はまだ独立したチューナーであり、日本ではほとんど知られていなかった。

メルセデスベンツも大好きで、富田は当時、350SLを自分なりに改造して楽しんでいた。けれども、ベンツを改造して乗るということ自体がまるで理解されず、知り合いの自動車評論家(後に超有名となる人たち)からは、「メルセデスはノーマルで乗るものだ!」、とけなされてもいた。

そんなときにAMGの記事に出会ったのだ。そこにはAMGがベンツのチューナーとして西ドイツでは有名な存在で、あまつさえツーリングカーレースに出場し大活躍しているとあり、書き手は旧知の仲である成江淳だった。富田はすぐさま成江に電話し、AMGの話をさらに詳しく聞いている。


聞けば聞くほどに「チューニングはこれからアリだ」、と自信を深めた富田は早速、次のアクションをおこす。AMGの創設者であるハンス・ヴェルナー・アウトレヒトに会うために西ドイツ行きを決心したのだった。




写真右手前から富田、金古、ペリーニ。写真左がアウトレヒト。地味ではあったが、頑固な工場の親父のようで、職人気質な雰囲気を感じたという。




いざ、西ドイツへ!

富田は、友人で童夢USAの社長でもあった金古(真彦氏)に連絡を取り、AMGとのコンタクトを依頼。金古は欧州で著名なイタリア人ジャーナリストのジャンカルロ・ペッリーニに連絡し取り次ぎを頼んでいる。

富田はちょうど2カ月後に童夢を応援するためにフランスはル・マンに行くことになっていた。その帰りに西ドイツのAMGを訪問できるよう、ペッリーニがアポイントを取り次ぐ。




当時の富田は36歳。商談後には新車の280SEをレンタルして、川下りなどをして西ドイツを楽しんだという




金古と連れ立ってフランクフルト空港に降りてみれば、ひげ面で陽気なペッリーニが見慣れぬアウディと共に待ってくれていた。それは先日(2019年8月27日)亡くなったフェルディナント・カール・ピエヒによって開発され衝撃のデビューを飾ったばかりのアウディ・クワトロで、ペッリーニはロードインプレッションを取っていたのだ。そのリアシートに収まった富田は、ペッリーニがまるでラリードライバーのようにドイツの道をかっ飛ばしたことを覚えている。81年のことだった。

AMGの本拠地はすでにアファルターバッハへと移っていた。けれども、田舎町であることに変わりはなく、AMGの工場もまた簡素にして質素なものだった。後に富田は、「もしあの時のAMGが立派な会社と工場でボクたちを迎えていたとしたら、チューニングカービジネスを日本で興そうという気にはならなかったかも知れない」、と本音を漏らしている。



アルピーヌを初めて見て、「これならできる!」と若い富田が不遜にも思ったように、この時もまた、AMGの質素で実直な佇まいをみて、自分でもできる!と思えたというわけだった。



アウトレヒトと直談判

AMGとは、創業者であるアウトレヒトのAとメルヒャーのM、そしてアウトレヒトの故郷であるグロースアスパハのG、という三つの頭文字を併せて造られたものだ。1981年のこのとき、メルヒャーは経営から退いており、アウトレヒトが陣頭指揮を取っていた。



富田がやってきたアファルターバッハは事業拡大に伴って創業の地ブルクシュテッテンから移転した場所であり、メルセデス傘下となったのちも引き続きこの地にメルセデスAMGの本社と工場は存在している。



富田がやってきた当時のAMGは、決して小さくはないけれどもプレハブ倉庫のような工場が並んでいるだけで、町工場の域を出るものではなかった。前述したように、富田が自信を持つくらい、それは質素で簡素なものだった。それでも西ドイツとアラブの客がAMGを求めてアファルターバッハまでやってくるのだという。富田は閃いた。いずれ日本人もやってくるだろう、と。



アウトレヒトはいかにも頑固そうな町工場のオヤジ然とした職人で、富田たちを快く迎えてくれたという。工場をひとしきり案内された富田は、すぐさまAMGの日本代理店契約を獲得すべくアウトレヒトとの契約交渉に挑んだ。




広告掲載後、取材は殺到したがサンプルカーは1台のみ。過密スケジュールを何とかやりくりして切り抜けた。富田は当時を振り返って、それまでで一番神経を使った経験だとしている


AMG日本総代理店に

交渉は、富田が日本語で話し、それを金古が英語に換えて、イタリア人のペッリーニがドイツ語に訳すという、のんびりとしたものだった。交渉はトントン拍子に進んで、正式な契約を後日、富田がスーパーバイザーを努める高島屋を通じて行なうことで結論をみた。このとき富田はデモカーとして2台のコンプリートカー(SECとSL)と数台分のパーツをサンプル購入し、日本へと輸出している。



日本にデモカーが届くと、富田は早速、専門誌にプレスリリースを送り、雑誌広告にはAMGロゴ入りの宣伝を掲載した。




サンプルカー1台で取材を切り抜けた経験は、のちのトミーカイラM30の発表の際にも役立った


知名度ゼロ。メルセデスベンツを改造するバカがどこにいる?と思われていた時代であった。ところが、富田の予想に反して、専門誌からすぐに取材依頼が殺到した。富田曰く、「ただカッコウいいだけのスーパーカーにみんな飽きてたんと違うかなぁ。もっと現実的で実用性もあって、ちゃんと性能の出る高級車を望んでいたんだと思う」。



そう、誰もが“スーパーカーの次”を探していたのだ。富田の挑戦は吉と出た。同時に富田には別の野望も芽生えている。日本車をベースとした本格的なチューニングカービジネスだ。車検を通るコンプリートカーというアイデアはまだまだ珍しかった。



しかし、日本車がドイツ車のようになるにはまだ早い。それまでドイツのチューニングカービジネスを学ぼうと、富田はBMWを使ったブランド、ハルトゲに食指を伸ばす。





次回予告

トミタオートはついにチューニングカービジネスに乗り出した。AMGやハルトゲ(次回紹介)といった今となっては超有名なブランドを日本に導いた富田の次なる野望は、日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ることだった。“改造車”=暴走族御用達というイメージだった時代に、それは一見、無謀な挑戦にも見えたのだが……。





文・西川 淳 編集・iconic

| | コメント (0)

2019年8月26日 (月)

車お宝話(513)自動車メーカーになった男 9話

Japan

 

 

 

 

 




 

 














Yoshikazu Tomita (No.9)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第9回



前回までのあらすじ──富田義一がクルマやバイクに目覚めたのは小学生のころの転校がキッカケだった。そこで富田は日本のレース業界でその後、大いに名を馳せることになる、とある人物と出会う。成長するにつれさらに広がってゆく京都のクルマ好き人脈。トミタオートのビジネスが軌道に乗り始めると、その人脈は日本のレース界にまで広がった。









その時々を一生懸命にやることがモットーだという富田。モトクロスに熱中していた当時の思い出も強く残っていたのだろう、20年後には息子にも体験させている。


あのコジマさんとモトクロス

転校した学校の小学生に小嶋松久がいた。後にコジマエンジニアリング(KE)を立ち上げ、F1に挑戦する、あの小嶋さんだ。

意気投合した富田は、小嶋の父からもたいへん可愛がられ、小嶋家に出入りするようになった。そこにはクルマやバイクがあって、富田は急激に興味をもちはじめる。あの頃は誰もがそうだったけれど、まずはバイクに乗りたくてしようがない。



公立高校に受かれば単車を買ってあげる。育ての叔母がそう約束してくれた。富田少年は急に勉強を頑張りはじめると、仲間内でただひとり公立高校に受かった。


叔母の内職を手伝う条件で、富田は山口オートペットという2気筒の50cc原付バイクを買ってもらう。当時、みんなはホンダのカブを買ったものだが、人気で2カ月待ち。1カ月すら待ちきれない富田は多少性能が劣るけれどもすぐ乗れるオートペットを選んだのだった。それまで園芸好きのか弱い少年だった富田にとって、勉強を頑張って一番欲しいモノを手に入れるという経験は、その後の人生を決めた最初の転機であったことは確かだ。





免許を取ってすぐ、小嶋の勧めでJAFのモータースポーツライセンスを取得し、モトクロスレースにハマっていく。オートバイだけじゃない。ラグビーや玉突き(ビリヤード)、喧嘩まで、日々明け暮れた男らしいモノやコトはすべて小嶋から教わった。

18歳のとき、富田は2台目の単車トーハツ・ランペットでモトクロスレースに初出場することになった。そのときすでに小嶋は全国的に有名なライダーになっていた。






オートペットを買ってもらい納車された日は、一睡もせずに眺めていたという。また、当時マン島TTレースなどに強く影響を受けていた富田は、レーサー風に改造することを決めた。


世界はきっと広いに違いない……

レーシングドライバーになりたい。少年時代にはそう願ったこともあった。当時レーサーになるにはまずライダーとして二輪で成功し、四輪へとステップアップするのが王道だった。

小嶋のアドバイスもあって富田もそれなりに活躍できた。けれども小嶋にはまるで適わなかった。初めてのレースでも富田は、予選第1ヒートの1周目こそ小嶋の教え通りに走ってワークスライダーたちを抑えアタマを取ったが、それが精一杯だった。2周目にはコースアウトしてしまい、予選不通過。一方の小嶋といえばマフラーまわりを小改造しただけの富田のバイクを駆って、予選第2ヒートをトップで駆けぬけている。



富田は早くも悟った。こんなに身近にこんなにも速いヤツがいる。世界はまだまだ広い。レース界にはとてつもなく速いヤツばかりがいるに違いない、と。

もっとも富田は自分に“実力がない”と言い聞かせたかっただけ、なのかも知れない。当時、レースの世界における二輪から四輪へのステップアップには、かなりの資金が必要だった。よっぽど目に止まる活躍をしてメーカーから声を掛けてもらわない限り、自力で戦闘力のあるクルマを買って出ていかなければならなかった。今でも四輪レースに参加するためにはそれなりの経済力が必要だが、当時のそれは今とは比べ物にならなかった。

金持ちしかできない。富田にはそんな余裕などまるでなかったのだった。





あのハヤシさんとル・マン

十代も終わりに近づいた頃。パブリカコンバーチブルで京都の街を夜な夜な駆けていた富田は、いつしか同じように京都でスポーツタイプのクルマを乗り回す若者と知り合った。後に童夢を立ち上げる林みのるだ。

富田が自動車販売ビジネスで成功を収めはじめたころ、レーシングカーコンストラクターの道を歩んでいた林はオリジナル開発のスーパーカー、童夢−零を引っ提げて一躍時の人となった。その名を世界に轟かせた童夢は、79年のル・マン24時間レース初挑戦を皮切りに、日本発レーシングカーコンストラクターとして有名になっていく。






904GTSを通じて多くの仲間との交流を深めた富田。レース後には彼らと旅に出かけるなど、車仲間以上に人として交流を深めていたことがうかがい知れる


富田はル・マン24時間レースを応援しにフランスまで行っている。仕事の都合でレーススタート直前にしか行けない富田が乗る便は、部品などを日本からル・マンへと運ぶ“最終便”でもあった。重たいデフを運んだこともあったという。後にアマダがメインスポンサーとなったとき、林に頼まれて日本から法被を運んだことがある。シャルルドゴールの入国でトラブったが、何とかル・マンに持ち込んだ。この法被が人気で、富田はアルピナのブルゾンと交換してご満悦だった。



レース中にはこんなこともあった。アルナージュを立ち上がったところにあったチームのタイミングピットに豪華な和食の弁当を運ぶ役を買ってでた。シトロエンで場外に飛び出した富田だったが、レース当日のル・マン周辺は大変な渋滞でにっちもさっちもいかない。

そうこうしているうちに白バイの警官と目が合った。やばい。国際免許証なんて持っていない。フランス語も話せない。瞬く間に警官たちと野次馬に囲まれてしまった。知らぬ存ぜぬで押し通そうとする富田。ひとりの警官が片言の日本語で話かけてきた。「日本の免許証はありますか?」

思わず日本の免許証を差し出す富田。万事休す、か。と、警官たちが笑いだした。なんと、子供がクルマを運転していると思われていたのだった。事情を知った白バイの先導で、弁当と富田とシトロエンは悠々、アルナージュへと向かった。



童顔の富田義一。三十代も半ばの話である。



あのタチさんとル・マン

ある時、富田は童夢USAの金古真彦(カーデザイナー)に会いにいこうと林に誘われ、ロサンゼルスへ行くことになった。その機中で林から紹介されたのがレーシングドライバーの舘信秀(後のトムス代表)だった。

当時すでに、日本のツーリングレースにおけるトップドライバーだった館は、セリカターボでアメリカのレースに出る準備のため、林と一緒に訪米したのだった。LAで意気投合した館と富田。舘が童夢セリカターボとして翌年のル・マンに挑戦すると知り、小さいながらもステッカー・スポンサーを買って出た。富田は日本での輸入車販売で日ごろ苦労しているナンバー取得への思いをこめて、市販車ならナンバーが装着される位置にトミタオートのステッカーを貼らせてもらったという(その場所は元々、ハヤシレーシング=林みのるの親戚が経営するアルミホイールメーカー、の場所だった)。その位置がガイシャ販売業者にとって最高のポジションだと思っていた。






ル・マンで仲良くなった生沢徹とは、その後も交流が続き、写真のポルシェ904GTSや、公認チューニングカーなどの話で意気投合した。


残念ながら舘と童夢セリカターボのル・マン初挑戦(80年)は予選不通過に終わっているが、その経験があればこそ、その後トムスと童夢はトヨタをグループCカーによる耐久レース(WEC)、そしてル・マンの舞台へと引っ張り出すことに成功する(ル・マンへの本格参戦は85年から)。

トヨタがル・マンで初勝利するのは、それから30年以上後のことだ。



富田はこの時期、ル・マンや国内レースに頻繁に出入りし、生沢徹や関谷正徳、鈴木亜久里といった名ドライバーたちと交遊を結んでいる。

次回予告

日本レース界の黄金期を垣間みた富田だったが、自身は自動車レース活動より自動車販売ビジネスから逸れることはなかった。否、むしろ身近な仲間たちがレーシングカーを製作し世界へ挑戦する姿を見て、元々あったエンジニア魂に火がつき始めていた。そう、誰かが造ったものを売る、だけでは飽き足らなくなってきたのだ。富田が次に目をつけたのはAMGやハルトゲといった独チューニングカーの世界だった。1980年代始めのことである。

文・西川 淳 編集・iconic

| | コメント (0)

2019年8月 7日 (水)

車お宝話(512)自動車メーカーになった男 8話

Yoshikazu Tomita (No.8)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第8回

前回までのあらすじ──1970年代後半、日本中の老若男女がスーパーカーに熱くなった。スーパーカーブームだ。けれどもいちクルマ好きとしての富田の興味はイタリアンスーパーカーに留まることなどなかった。英国、ドイツ、フランス、アメリカ……、世界中のスポーツカーに興味をもった。ありとあらゆるクルマを乗り尽くしたからこそ、進むべき次のステップが見えたのだろう。今回は富田が今でも最も好んで乗っている英国車の思い出を振り返ってみよう。

メーカー単位でなく、国単位でのめり込むクルマが変わって行ったという富田。この頃はモーガンやジャガーだけでなく、パンサー、ロータス、ミニ、バンデンプラスなどを集めていた。

英国車:ジャガーの紳士

ポルシェ356とジャガーEタイプが若い頃の富田の憧れだった。サラリーマン時代のこと。当時、日本中がボーリングブームに沸いていたが、富田も例に漏れずハマっていた。否、根っからの凝り性である富田は、サラリーマン生活を抜け出すため、真剣にプロボウラーを目指していた。

通ったボーリング場にはいつもシルバーのEタイプが停めてあった。全国大会出場をかけた予選の最中に恰幅のいい紳士から声を掛けられた。なぜか富田がクルマ好きであることを知っていたその紳士は、「この予選に勝ったら君をEタイプに乗せてあげよう」と言う。聞けば、このボーリング場の経営者だった。

残念ながら富田は予選で敗退した。肩を落として会場を出ようとすると玄関にシルバーのEタイプが横付けされていた。

「よう頑張ったな。食事でもしに行こか」。

Eタイプはそのまま富田をのせて比叡山方面へと向かった。興奮のドライブだった。親の顔すら知らない富田にとって、その紳士は理想の父親にもみえたのだろう。比叡山のレストランでは自分の将来について熱く語っていた。

「そんなにクルマが好きなら早く独立しなさい」と、紳士は富田を激励した。京都では有名な実業家だった。

「ボクもいつかジャガーが買えるように頑張ります!」。

ワインを嗜んだ紳士は、最初からそのつもりだったのだろう、帰り道のドライブを富田に託している。夢見心地のジャガー初ドライブから数年後、独立を果たした富田は緑のEタイプを買って、紳士との約束を果たした。

富田をジャガーに乗せた紳士の子息が目をつけたプラス4。仕様としては標準的だが、コンディションは新車並みだった。

英国車:モーガンの縁起

ジャガーに劣らず富田はモーガンを好んだ。あるとき、店に3台のモーガンを展示していると身なりのいい中年の紳士がやってきて、新車のようなコンディションのプラス4を熱心にチェックしはじめた。

「このモーガンは売り物でしょうか」。紺のブレザーにストライプのネクタイといういかにも英国流の着こなしでもの静かにそう問う紳士に、富田は少し戸惑いを覚えた。似合うのは間違いない。けれども、こんな上品な紳士が果たしてモーガンを乗りこなそうと思うものだろうか……。

話を聞けば、ケンブリッジ大学を卒業してからイギリス生活が長かったのだという。家業の都合で帰国したが、イギリスでよく見かけた憧れのモーガンが忘れられず、日本で夢を叶えようとあちらこちら探していたらしい。

面影がなくもなかった。そう、忘れもしない、彼こそは独立前の富田をジャガーEタイプに乗せてくれたオーナーの子息だったのだ。理想の父親にみえた紳士はすでに亡くなっておられた。けれども、その子息とクルマを介して再び、深い縁を結ぶことができたのだった。

トライアンフ社製のエンジンを積み、内装も本革張りになった特別仕様のプラス4も置いていた。

案の定、彼はモーガンを颯爽と乗りこなした。冬でもオープンにし、バーバリーの襟を立て、ゴルフバッグを助手席に置いて、京都の街なかを当たり前のように走っていた。

ロールズロイスを受け取りに行った帰りに、富士スピードウェイへと足を運ぶこととなった富田。生まれて初めてのF1観戦に憧れのクルマでのドライブで向かうとあり、意気揚々と足を運んだ。

英国車:ロールズの真価

富田の英国車趣味はとうとう極まった。ロールズロイス・コーニッシュを買ったのだ。1976年のことだった。

東京までコーニッシュを受け取りにいく直前に、一本の電話が掛かってきた。旧知のM氏だった。彼は74年から自ら設計したマシンでF1挑戦を続けている。そう、海外のF1レースに日本から挑戦した史上唯一のプライベートチームである、マキF1だ。

資金難に喘いでいたチームは、藁をもすがる気持ちで富田に援助を仰いだ。予選を走るガソリン代にも困っているという。ちょうど東京に行く用事もあることだし、パドックパスも出すというので、富田は喜んで引き受けた。

自らの運転スタイルまで変えられ、F1会場では特別待遇を受けた冨田は、あっという間にロールズロイスにより魅せられた。

初めてドライブするコーニッシュに富田は驚いた。ドライブフィールに、ではない。ドライバーのフィールを変えてしまうことに、だった。ロールズロイスのステアリングを握ると、不思議と落ち着いたのだ。普段のせっかちなドライビングスタイルはすっかり影を潜め、誰に対しても「どうぞ、お先に」という気分になった。ロールズロイスは人間をも変えてしまうクルマだった。

そんなわけで富士への到着が予定よりも随分と遅れてしまった。パスを受け取るはずの場所にはもう誰もいない。まずはクルマをどこかに停めて、と思案していると、フェラーリのチームウェアを着たスタッフに、「専用駐車場へどうぞ」と、ひどく丁寧に案内されるではないか。

フェラーリとロールズロイスの日本販売代理店が顧客サービスの一貫として行なっていたという。今とは違って、ごく一部の限られた人たちだけが所有できた時代だったからこそ、真っ白なロールズロイス・コーニッシュに乗る富田はフリーパスでフェラーリピット脇の専用パドック駐車場まで案内されたのだった。

写真でもわかるように、ナンバープレートこそついていたが、車検や保険は全て切れていた。

英国車:ジャガーの厄難

話は独立直後に戻る。富田が悩んだすえ初めて仕入れた高級スポーツカーは、例のEタイプではなくXK140フィクスドヘッドクーペだった。ワイヤーホイールが珍しい1台で、当時の富田にとってはそれこそ“清水の舞台から飛び降りる”覚悟で購入した青い個体だった。

ところが、このクルマがとんでもない厄介を呼び寄せてしまう。ある日のこと、右も左も分からない新人社員がひとり店番をしていると、近所の若者が狙ったかのようにやってきて、「社長の了解は得ているから」と、XK140をショールームから引っ張りだし、乗っていってしまった。

富田が戻ると、例の新人が血相を変えて飛び出してきた。「社長、大変です!すぐ西陣署へ行ってください」。事務所の前が今出川通りで、東隣に北野天満宮があり、その向かいに西陣署(現上京署)があった。その交差点で、ジャガーが大事故をおこしてしまったという。四重事故でけが人も出ていた。

しかもこのジャガー、ナンバーは付いているけれど車検は切れているし、当然、保険も何も入っていない。若者も新人も、ナンバーが付いているから大丈夫だと思ったことが大間違いだった。しかも、当事者の若者は、事件後すぐに家を捨て行方をくらましてしまった。

結果、所有者責任を問う、ということで、5人分の治療費を持ち主が払えという国からのお達しが来てしまう。富田にも言い分はあった。クルマはほとんど盗まれたのも同然で、しかも全損に近い。賠償して欲しいのはこっちのほうだ、と、霞ヶ関の運輸省まで怒鳴り込んだ。

国の言い分はこうだった。盗まれたことと事故はまるで別の問題。怒り心頭の富田は担当者に雷を落とすと“毎月千円でも良いから返済してほしい”という。結局、富田は国に15年かけて完済している。

このジャガーには後日談がある。ほとんど全損になったジャガーXK140を、とある有名なクラシックカー屋が引き取りにきた。事故の際、ワイヤーホイールが1本盗まれており、揃わないと値打ちがない、などとさんざんケチを付けられた挙げ句、わずか2万円で引き取られていった。

1年後、同じジャガーがきれいに修復され、「日本に1台しかないワイヤーホイール付きXK140」として、とてつもなく高いプライスタッグを付けていた。

霞ヶ関とクルマ屋は、怖い。

次回予告

童夢もコジマも京都から、だった。富田義一もまた、一時は彼らの仲間として行動をともにしたり、レース活動をサポートしたりしている。次号ではトミタオートとモータースポーツとの関わりについて振り返ろう。レース業界との関わりもまた、チューニングカービジネスやオリジナルカーの製作へと突き進むキッカケとなった。

| | コメント (0)

2019年7月31日 (水)

車お宝話(511)南イタリア アマルフィの旅

急に思い立って、ふと書いてみたくなったので・・・

半月ほど前にイタリア~フランスを旅したときのこと。

南イタリアは初めてで、世界でも最も美しいといわれるアマルフィへ!

Img_4214

Img_4213

海外へ行くときの楽しみの一つは、ワクワクする車を発見すること、

それは、僕にとって旅をするうえで、一番大事なこと・・・

ところが、今回の旅でワクワクする車には、一度しか出会えなかった!

停まってる車も、走ってくる車も、おもしろくない!

ワクワクする車が走っていないし、停まってもいない・・・

なぜなんだろう、なんてぼんやり考えていたら、フト気が付いた。

60年以上にもなる、永い車好きが、過度の期待を定着させたのだろう・・・

確かに世界中の車が似通ってきていることは否めないが、

多分、見飽きたのだろうと思う!

食べるものだって、若いころから和食一辺倒で、海外でも必死に

日本料理を探してたのに、今は二の次、三の次で、飽きてしまった!

最近は週に三回は、イタリアンのお店に行くし、自分でも好んで作る。

先週なんぞ、初めてのべトナム要理が偉く気にいってしまったほど・・・

タイ料理も食べられるようになったし、肉は根っから好きだし・・・

多分、同じような感覚で飽きたのだろう!

で、唯一 今回の旅で気に入って、思わず追いかけて撮った車が、

初代フィアット500、いわゆる「チンク」だ!

それもめったにないオープンカーで、多分、改造車だろう・・・

Img_3630

色よし、雰囲気よし、乗っている男女もぴったり似会ってた!

多分、もう普通の車では飽き足らなくなってしまったのだろう・・・

10年ほど前からなんとなく始めた料理も、自分が思うように、

自分が食べたいものを、自分の味付けで食べたいからだ!

同じように車も、もう自分で造るしか、ワクワクしないだろうな~。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (1)

2019年7月23日 (火)

車お宝話(510)自動車メーカーになった男 7話

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第7回

Yoshikazu Tomita (No.7)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第7回

前回までのあらすじ──単身イタリアへと渡った富田は、当時まだ非常に珍しかったフェラーリやランボルギーニの中古車を仕入れることに成功する。時を同じくして、トミタオートにはカメラをぶら下げた子供たちが集まってくるようになった。老若男女、日本中が熱くなったスーパーカーブームがやってきた。そのとき富田は何を思い、何を心に決めたのだろうか……。 文・西川 淳 編集・iconic

デ・トマソ パンテーラ

3歳にして戸籍筆頭者、言わば天涯孤独の身であった富田。それゆえだろうか、歳上の経営者や成功者には不思議とよく可愛がられた。

そのなかのひとりに、大臣を平気で連れ回すような60歳を超えた怪紳士がいた。富田とは年齢や社会的立場の違いを超えて、夜を徹しクルマのことを語り合う仲だった。

その紳士から富田は「デ・トマソ パンテーラにGT4という高性能仕様があるらしいんだけれど、それを買ってきてくれないか?」、と頼まれる。生意気盛りだった富田はこうきり返した。「そんなレーシングカーみたいなクルマ、絶対無理ですよ。パワーもあるし、クラッチも重いし、エンジン掛けるのも大変です。でも、どうしても乗りたいというなら、まずノーマルのパンテーラを1万キロ以上乗ってからにしてください」

件の紳士はその場で新車のGTSを購入。1年かけて1万kmをクリアした。富田もまた約束を果たすべく、デ・トマソ本社へと赴く。

「できるだけ早く作ってあげるよ」

遠く日本からやってきた富田を歓待したデ・トマソ。テストドライバーの駆るGT4の助手席に乗せられ、田舎道を200km/h以上でかっ飛ばされた。

「対向車が来たらどうするの?」、と富田が問う。

「畑に突っ込めばいいだけさ」

数々の修羅場をくぐり抜けた富田にとっても、三本の指に入る怖い思い出だという。

日本第1号車として富田が自ら購入したワインレッドのランボルギーニ ウラッコ。一目惚れだったにも関わらず、たった10日ほどで飽きてしまったという。

ランボルギーニ ウラッコ

ランボルギーニ車販売の西日本総代理店となっていたトミタオート。その記念に、と富田は自分の名前でランボルギーニ ウラッコの日本1号車を買い付けている。

イタリア買い付けツアーのごく初期の段階で、ランボルギーニ社を訪れていた。そこで開発し終えたばかりのウラッコを見せられヒトメボレしていたのだった。

ウラッコは2.5リットルのV8エンジンをミッドに積む2+2のスポーツカーで、デザインはカウンタックと同じくマルチェロ・ガンディーニ、ライバルはポルシェ911、という話を本社の人間から聞かされていた富田は、日本でもそれなりの数を売るべく、まずはデモカーとして日本初号機を買い付けたのだった。

富田のウラッコはワインレッドだった。早速、ナンバーを付けて毎日乗り回した。けれども、10日ほど経つと急に熱が冷めてしまった。12気筒と比べてパワーはないし、シフトチェンジのフィールもそれほど楽しいわけじゃない。けれども、そんな性能面に飽きたわけではどうやらないらしい。

富田はウラッコを眺めて、ふいに悟った。直線基調にみえるスーパーカーは自分の趣味ではなかったのだ、と。もっと丸みを帯びて愛嬌のあるデザインが自分の好みであることに今さら気づいたのだった。

女性と同じでじっくり長く付き合えるデザインは、丸みを帯びていなければならない。この確信が、のちのちのオリジナルカー製作に生かされることになる。

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第7回

ギャラリーを見る

11 Photos

ギャラリー:自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第7回

フェラーリBB

70年代後半に巻き起こっていたスーパーカーブーム。実はヨーロッパやアメリカでも当時、スーパーカーというカテゴリーは非常に注目されていた。子供たちを巻き込んで、というのは日本独特の展開だったが、フェラーリランボルギーニといったブランドが競い合うようにして派手な新型車を出していたのだから、目立たぬわけがない。

こんなこともあった。本業がクルマ屋だというのに、ブームだからといって売買よりも貸出しの方が増えていた。そんな状況に嫌気が指していた頃、トミタオートのショールームに、ほとんど新車に近いフェラーリBBの在庫があった。そのBBを西ドイツの友人が欲しいと言ってきたのだ。

日本はスーパーカーブームで価格が高騰している。割に合わないのでは? と返すと、採算は取れるという。ヨーロッパでもスーパーカーが注目されていたという証であろう。富田はBBを売却した。

BBが1カ月半かけて西ドイツに到着するかどうかという段になって、とある日本人が同じBBを求めてショールームにやってきた。彼は何度もそのBBを下見に来ていたらしいのだが、決心がつかずにずるずると購入を先延ばしにしていたらしい。そうこうするうちにショールームからBBがいなくなってしまった!

貸出しか何かでいないだけだろう、と高をくくっていたら、待てど暮らせど戻ってこない。慌てて買う決心をして富田の元に現れたのだった。

インターネットのない時代。在庫確認は雑誌広告が全てだった。

富田は彼の熱意にほだされ、BBを西ドイツから買い戻した。

トミタオートで在庫していたフェラーリ 365BBの極上車を西ドイツの友人に売却したが、とある日本人の熱意に負けて、西ドイツから買い戻したこともあった。

スーパーカーブームって……

“西の仕掛人”として一躍ブームの寵児となった富田だったが、彼の心のなかでは終始、違和感があったという。好きなクルマを懸命に探し、見つけてはリスクを負って仕入れ、愛情をこめて売る。それがカービジネスの本質だと思っていた。

ところが、ブームというものは様々に波及し、ビジネスのチャンスを拡げていく。勢いカービジネスの本筋とはずいぶんと離れたところで、さらに大きなビジネスが栄えていった。社会現象となったスーパーカーブームたる所以でもあった。

このままではスーパーカーの魅力が誤ったカタチで伝わってしまうかもしれない。自分は子供だましの“見せ物”としてスーパーカーを日本に紹介したかったわけじゃない。

20代の頃にイタリアのカロッツェリアを巡った経験のある富田には、夢を描いてカタチにするという当時のスーパーカーの本質を日本人にも知ってほしいという願いがあった。本物のスーパーカー文化を伝えたかったのだ。

富田は『ラ・カロッツェリア・イタリアーナ』という伝説のカーイベントを仕掛けている。ピニンファリーナやザガート、イタルデザイン、ミケロッティ、ベルトーネといった有名カロッツゼリアがこぞって参画し、珠玉の名車たちを晴海にあった国際見本市会場に並べた。1977年のことである。

【次回予告】
富田が扱ったのはド派手なスーパーカーばかりではない。ジャガーやメルセデス、モーガンなど欧州ブランドはもちろん、アメ車にもよく乗った。なかにはシェルビーコブラ・デイトナクーペのような、今となっては数億円の価値がある名車もあった。世界中のスポーツカーを乗り尽くしたことで、富田の進むべき次のステップが見えてきたのだった。

| | コメント (0)

«車お宝話(509) 自動車メーカーになった男 6話