2020年4月 1日 (水)

車お宝話(523)自動車メーカーになった男 16話

TOMITA

Yoshikazu Tomita (No.16)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第16回

日産スカイラインに始まった国産車ベースのチューニングカー事業は順調に進みはじめた。トミタ夢工場の事業構想もますます膨らみ、富田はいよいよ念願だったオリジナルスポーツカーの開発を決意する。バブル経済はすでに崩壊していたが、富田が想像し続けた夢だけは決してはじけることはなかったのである。

トミーカイラ製チューニングカー、続々

89年4月に京都で開催されたトミーカイラ製コンプリートカーの発表会は、大覚寺という大舞台でトミーカイラという国産ブランドの存在を世に知らしめる絶好の機会となった。けれども富田は決してそれだけで満足しない。翌90年6月には早くも新型スカイライン(R32)ベースの2代目M20&30を開発し、嵐山でデビューさせている。

京都の名勝地にてお披露目。それも2年続けて。はっきり言って二匹目のどじょうである。それは富田も分かっていた。だから今回こそ主役はクルマだとばかり、白と黒の新型モデルを嵐山の緑をバックにして大胆に展示した。クルマそのもの魅力を存分に伝えるべく、プレスカンファレンスも落語会のように高座(発表者)と座敷(プレス)で行なうという非常な展開を試みた。富田は“二匹目のどじょう”の重要性も知っていたのだ。

なかでも2代目M30の開発には強いこだわりがあった。R32スカイラインをベースとした新型M30の開発がスタートした時点で、GT-R(BNR32)が復活するという情報をキャッチしていたし、それがターボエンジンの4WDであることも知っていた。けれどもGT-Rをベースとしたコンプリートカーの開発に日産からのゴーサインが出ない。そこで富田は持ち前の負けん気を発揮する。初代M30のコンセプトを引き継ぎ、GT-Rとはまるで異なる、けれども負けない高性能車を造ってやろうじゃないか……。

そうして生まれたのがFRで自然吸気3リットルエンジンを積んだ2代目M30であった。最高出力280ps&最大トルク30kgmは当時の自然吸気エンジンとしては異例のスペック(初代ホンダNSXと同じ)であり、M5を意識したというサウンドチューニングと相まって、その走りが一部のマニアを狂喜乱舞させた。

限定わずかに200台。エンジンだけじゃない。フロントフェンダーは富田のこだわりで大好きな300SL風のオーバーフェンダーが装備されていた。スポイラーやウィングのディテールにも凝っている。トミーカイラ史上、最も採算の合わなかった企画でもあった。富田のチャレンジ魂が生んだ執念の1台だと言っていい。ちなみに、このモデルの発表直後、R32GT-Rベースのコンプリートカー開発に日産からの許可が降りてきた。

橋本聖子とトミーカイラ

バブル経済崩壊の直前、もう1台のスペシャルなコンプリートカーが誕生している。M30Z、そうフェアレディZベースのトミーカイラだ。

このクルマは“日本初”の偉業を達成している。当時、メーカー製の高性能車といえば最高出力を280psに自主規制していた。NSXも、GT-RもGTOも、そしてZ32もエンジンの種類に関わらず280psだった(このことがその後の国産スポーツカーの進化に悪影響を及ぼしたと筆者は思っている)。実はトミーカイラM30Zは国産車で初めて300馬力の壁を越えたのみならず、350psで運輸省の改造申請をクリアしていたのだ。

発表後、富田のもとにある人物から連絡が入る。スピードスケートの女王で現参議院議員の橋本聖子だった。その内容は、M30Zが欲しい、オリンピックでメダルが取れたら買っていいと監督から言われた、というものだった。

92年アルベールビル冬季五輪。橋本はスピードスケート1500mで見事に銅メダルを獲得する。数日後、パリにいた橋本から富田に直接オーダーの連絡が入った。

数カ月のち、橋本はスピードスケート男子のホープ黒岩彰を伴って自ら京都までM30Zを引き取りにやってきた。黒岩もまたスカイラインベースのM30を気に入ってその場でオーダーしたという。

話題のアスリートのオーダーである。未だ知る人ぞ知るといったブランド名を全国へ広める絶好のチャンスだったが、富田はそれをしなかった。橋本や黒岩と公にしないと約束し、マスコミにも伏せて静かな納車式を行なった。

M30Zは自動車雑誌の取材で最高速度290km/hを記録している。

92年正月、役員会にて

話は少し戻って91年正月のこと。恒例の年頭役員会において重要な決断が下された。「オリジナルスポーツカーの開発」である。

突然振って湧いた話ではもちろんなかった。富田には昔からオリジナルスポーツカー開発への野望があった。アルピーヌA110を輸入したときにも、「これなら造れるかも」と分不相応にも思ったものだ。その心のうちを口に出すことなどほとんどなかったが、思いは熱く秘められていた。

初代M30が日本初の公認チューンドカーとしてデビューしたときも、あるテレビの取材で女性リポーターから将来の夢を聞かれ、富田はこう応えている。「小さくて可愛らしくて動物的な愛情を感じるクルマを造りたい」。オリジナルスポーツカーの開発は彼の想像力が培った最大の夢であり目標であった。

レースエンジニアだった解良喜久雄をトミタ夢工場に引き入れたのも実はその布石であった。

そんな富田の秘めたる思いを当時常務だった解良が汲み、仕事始めの役員会で提案した。富田もまたその熱い思いを吐き出した。決断はもちろん、「オリジナルスポーツカーを造ろう」。

チューニングカービジネスを発展させてきた一方で、富田は大メーカーに振り回される悲哀も存分に味わっていた。相手は巨大な組織であり、今は味方になってくれる人がいても将来は分からない。経営や株主が変われば方針も変わる。別の柱が必要だと思っていた。それも自らの技術力を存分にアピールできるような柱だ。その答がオリジナルスポーツカーの量産であった。

「会社が潰れるかもしれない」。富田は一瞬そう思ったという。けれどもいちど決めたことは絶対に成し遂げるのが富田の流儀だ。かくしてトミタ夢工場のオリジナルスポーツカープロジェクトは動き出す。

会社トップのジジィたちが何やら始めたぞ!

何やら社長たちがこそこそ始めた……。まもなく社員たちもそれまでとは違う空気を感じ始めていた。毎週月曜の朝に開かれていたプロジェクトの報告会兼役員会を、誰かが“今朝もジジィの会、熱心にやってはるな”などと言うようになっていた。ジジィか。それええな。富田はそう思った。

何としても50歳までにオリジナルスポーツカーを走らせたい。1945年生まれの富田はそう決めていた。あいにくバブル経済が崩壊し、景気は悪くなる一方であったが、諦めることはなかった。引き返すことなどありえなかった。

基本のコンセプトは早々に決まった。解良がレーシングカーエンジニア時代から暖めてきたアイデアである革新的な“アルミ押し出し材モノコックシャシー”を基本に、日産のパワートレーンを使った軽量コンパクトなオープン2シータースポーツカーとなった。パワートレーンの選択に関していえば、トミタ夢工場と日産の当時の深い関係から、それ以外のチョイスなどありえなかった。事実、日産からトミタ夢工場に供出されたSR20ユニットは、公言を憚るほど安価なものだった。たとえば完成エンジン代は、パーツ代のおよそ8分の1だったというから驚くほかない。

京都府亀岡市に開発拠点を置いた。クルマの運送で世話になった会社の倉庫を借りたのだ。

プロトタイプシャシーが完成したのは94年のことだった。

PROFILE
西川 淳
スズキ ジムニーからランボルギーニ カウンタックまで幅広く愛するモータージャーナリスト。富田氏との付き合いも長く、現在自身が京都に居を構えていることから、富田氏とは今も多くの時間を共有している。

(次回予告)
完成したプロトタイプシャシーをいよいよ試す日がやってきた。果たしてその完成度はいかに? プロジェクトを開発から一貫して取材していたメディアの存在が後にそのスポーツカーの評価をさらに高めることになる。さらにそのシャシーに被せるスタイリングの開発には紆余曲折があった。次号、オリジナルスポーツカー、ついに発進だ。

文・西川 淳 編集・iconic

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2020年2月26日 (水)

車お宝話(522)自動車メーカーになった男 15話







CARS

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第15回



前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。








発表前夜に起きたアクシデント

1980年代の大手メーカーには絶対に手の出せない領域だった“チューンドカー”=クルマ好きの眼鏡に叶う性能とデザインをもつユニークな少量生産車。しかもそのクルマは大手メーカーの協力を得て、車体はもちろんパーツに至るまで供給され量産も視野に入れる。つまり巷にあふれた違法改造車とは根本的に違う存在。購入後のアフターサービスも充実させる。これなら絶対に話題になる。富田はそう確信した。




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前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。

しかも富田は「ハルトゲ・スカイライン」構想=輸出用の3リットル直6エンジン(RB30)ブロックに2リットルRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮するストレート6を積む、を上回るスペックを実現しようとした。そうして生まれたのが240psを発揮する“トミーカイラ・M30”だった。

トミーカイラブランドを広める最大のチャンス。富田は大々的な発表会を企画し多くのマスコミに招待状を送った。すると間もなく運輸省からクレームが入った。招待状の文面に間違いがあって大阪支局の担当官が激怒しているというのだ。おそらくチューンドカーのお上公認という前代未聞の出来事に運輸省にもマスコミからの取材が入ったため分かったのだろう。



実は当時の運輸省のトミーカイラM30に対する判断は“認可”ではなくあくまでも“届け出”を受理したということだった。ところが招待状には認可されたとあったのだ。富田たちには“認可”と“届け出”の違いすら分からなかった。このままではまたしてもすべては水の泡となってしまう。しかも実現の寸前で……。


富田は役所の閉まる17時が過ぎていたにも関わらず一か八かで大阪支局に駆け込んだ。守衛をくどき落とし幸いにも在局していた担当官に取り次いでもらう。自らの無知を詫び、必死に話すこと半時間。何をどう話したのか富田にはほとんど記憶がない。けれども担当官の怒りは奇跡的に和らぎ、訂正文の見本まで作ってくれた。

富田に、そしてトミーカイラM30にも、運があったというわけだった。





大きなニュースとなったM30発表会

ドイツのAMG本社を訪問してから7年が経っていた。ついに富田もアウトレヒト(AMG創業者)と同じ土俵に立つことになったのだ。

トミーカイラM30の発表会は日産アプリーテという荻窪にあった関連会社で行なわれた。そこのトップが富田と親しくしてくれていたからだった。本社への根回しも万全だった。日産の勢力圏で発表会を開催できたことが幸いし、テレビや新聞といった今までなら関心をもたないマスコミが富田のプロジェクトを好意的に報じてくれた。曰く、「改造車が市民権を得た」。運輸省と日産という大組織の“お墨付き”の効果はそれほどまでに絶大だったのだ。



クルマ専門メディアはさらに高く評価してくれた。「日本初の公認チューニングコンストラクター」というタイトルに、富田はやっとここまで来た、ひとつの夢が叶ったと素直に喜んだ。

トミーカイラM30の評判も上々だった。多くの専門メディアがテストを望んだ。当時の日産スカイラインは2リットルがメインで最上級グレードはターボ付きとはいえ190馬力だった。それにひきかえM30は自然吸気ながら3リットルエンジンが240馬力を叩き出す。パワーコントロールのしやすさ、シャシー性能の高さに熟練のレーシングドライバーも高い評価を与えている。

富田の目論みどおり、トミーカイラブランドが一躍、その名を馳せたのだった。




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ギャラリー:自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第15回

前回までのあらすじ──日産とのコラボレーション“ハルトゲ・スカイライン”が水泡に帰した。富田はその逆境を日本初の市販公認チューニングカーを自ら造ると同時にオリジナルブランド“トミーカイラ”を確立するまたとない機会と捉えたのだ。そうして生まれた日本初の“公認”市販チューニングカー“トミーカイラM30”とは、いったいどんなクルマだったのか。



続いて開発されたシルビア、シーマ

1980年代後半。日本はバブル経済のまっただ中にあった。日産にもたっぷり余力があった。セドリック・グロリアの上をいく3ナンバー専用の高級車まで登場し、「シーマ現象」を引き起こす。高級車ブームが到来した。

日産でシーマのマーケティング担当だった人物がトミーカイラ担当を兼ねていた。自然とシーマベースのトミーカイラプロジェクトも企画され、M30Cというチューニングカーが誕生する。エンジンパワーアップ(280馬力)に専用エアロパーツ、高価な本木目ダッシュパネル(オプション)などをおごった、AMGに対抗する高額なコンプリートカーだった。

当時、日産の人気モデルだったシルビアをベースにトミーカイラM18Si、18SiRというモデルも開発した。日産のスペシャリティカーや高級車が人気だったからこそ、トミーカイラの各モデルも話題になったと言っていい。



以降、マーチやプリメーラ、フェアレディZといった他の日産車をベースにしたトミーカイラモデルも続々登場したのだった。



熱意が結ばれて実現した京都大覚寺での披露

東京で開催されたトミーカイラM30の発表会は大盛況だった。けれども富田にはやり残したことがあった。本当はトミーカイラの本拠地である京都に多くのメディアを呼びたいと思っていたのだった。



メディアが好意的に取り上げてくれさえすれば費用対効果は抜群であることを、富田はマハラジャや日産アプリーテといった過去のイベント主催で経験していた。日産アプリーテでのM30発表会は広告費換算で当時1.4億円近かったと日産関係者が教えてくれたという。

何とか京都に多くのメディアを呼べないものか。富田は考えた。わざわざ京都まで来てもらうためには今までにない趣向を凝らさなければならない。そこで思いついたのが、春の京都らしさを満喫してもらうという企画だった。

京都の春といえば桜。桜の咲き誇る有名な場所で、お茶や琴、着物、船遊び……そんなことをできる場所は大覚寺しかない。富田はそう思い込んだ。

旧嵯峨御所である。華道や茶道など文化事業ならいざ知らず、私企業のクルマを並べるイベントなどにそう易々と貸し出してもらえるような場所ではない。それでも富田は直談判に向かった。ダメ元などという軽い気持ちではない。絶対にやってもらうという覚悟で門を潜ったのだった。



多少のツテもあったので門前払いは免れた。けれども応対に出た渉外担当の僧侶は当然ながら100%断るつもりだったという。けれどもあまりに熱心に夢を語る富田にあろうことか根負けをしてしまった。どころか富田のプランである船遊びのために抜いてあった池に水まで入れてくれることになった。

M30やM30C、M18を並べた前代未聞の大覚寺イベントは、多数のメディアで賑わった。茶をたて、琴を奏でて、船を浮かべた。桜が咲き誇っていた。大盛況であった。

(次回予告)
日産スカイラインに始まった国産車ベースのチューニングカー事業は順調に成長を続けた。トミタ夢工場の事業構想もますます膨らんで、富田はいよいよオリジナルスポーツカー開発へと舵を切る。日本のバブル経済は崩壊したが富田の夢は決してはじけることはなかった。



文・西川 淳 編集・iconic







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2020年2月 3日 (月)

車お宝話(521)自動車メーカーになった男 14話

 

 

 

Yoshikazu Tomita (No.14)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第14回

前回までのあらすじ──サニーとスカイラインで日産とトミーカイラとのコラボは順調に進み始めたかのようにみえた。富田はこれきっかけにトミーカイラブランドを育て、トミタ夢工場でオリジナルカーを造るという夢を描き始めていた。人・金・モノ、すべてに圧倒的な大企業においてトップダウンの特別待遇を得た富田だったが、そこには予期せぬ落とし穴がいくつも待っていた。

幻と終わったハルトゲ・スカイライン。ヨーロピアン・コレクションではハルトゲのロゴは消えてしまった。

クルマを良くしたい思いが裏目に

輸出用の3リッター直6エンジン(RB30)ブロックに2リッターRB20DE用ツインカムヘッドを載せてNA(自然吸気)ながら230psを発揮する直6を積んだ「ハルトゲ・スカイラインHS30」構想を提案し始めた頃から、富田らに対する日産社内の風当たりが強くなっていた。

ある時、担当者が重い口を開く。富田たちのプランを日産の社員たちは裏で『ウルトラCプロジェクト』などと呼んでいた。奇異の目で見られているというのだ。要するに富田たちは日産自動車の玄関を間違って入り、逆向きに突っ走っていてみんな迷惑に思っているのだ、と。富田としては右も左も分からず、ただクルマを良くしたい一念で走ってきただけだったが、それは組織のなかで必ずしも機能する方法ではなかった。

組織には理解者や協力者がひとりでも多くいた方が良い。そう気づかされた富田は翌日から仕事のやり方を180度変えた。通常の手順を踏んだ。役員から呼びかけてもらうのではなく、受付カウンターに寄って面会カードを書き担当者を呼んでもらうことから始めた。そして会ったひとりひとりにチューニングカービジネスについていろんな角度から丁寧に説明した。たとえ分かってもらえなくても相手と打ち解ける努力をしたのだった。

幻となったハルトゲ・スカイライン

地味な努力で富田たちの理解者が増え始めたというのに、肝心の“ハルトゲ・スカイライン”プロジェクトの雲行きはいっそう怪しくなっていく。実はプロジェクトに対する執拗な反対工作が裏で行なわれていたのだった。

原因はトミタ夢工場のレース活動にあった。長坂尚樹選手を擁する富田の会社は85年に始まった全日本ツーリングカー選手権(JTC)にハルトゲBMWで出場し、見事シリーズチャンピオンに輝いていた。これがある人物の逆鱗に触れたのだ。実はその年のJAF主催年間表彰式において富田はその人物から「絶対にハルトゲ・スカイラインなど認めない」と宣言されていた。

富田が日産と関わるきっかけとなった、R31型スカイラインの2ドアクーペ。4ドアモデルで芳しくなかった評判を取り戻すため、試作段階から富田が携わった。

その人物とは日産社内に幅広い人脈と影響力をもっていた難波靖治ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)初代社長である。

結局、富田の“ハルトゲ・スカイライン”構想が実を結ぶことはなかった。それでも地道に造り上げた富田の社内人脈が功を奏したのか、富田の企画はスカイライン「ヨーロピアン・コレクション」として、日産本体ではなくプリンス自販とのコラボレーションという形で実現する。もっとも「ヨーロピアン・コレクション」そのものはチューニングカーではなく、単なるドレスアップカーであったが……。

さらに87年には富田の企画によく似た“スカイラインGTSニスモバージョン”も登場しているから、一連の出来事はユーザーの存在を無視した、子会社社長のメンツをかけた日産社内の単なる抗争でしかなかったのだった。

のちのトミーカイラ・M30に採用されたと思われるエンジンの写真。実際に搭載されたものかは定かではないが、すでにM30のロゴが刻まれている。

櫻井眞一郎との出会い

“ハルトゲ・スカイライン”計画が暗礁に乗り上げそうになった頃、富田はミスタースカイラインこと櫻井眞一郎とも会っている。

それは当時の副社長がセッティングした食事会だった。突然自分の縄張りに殴り込んで来た若造に当然ながら櫻井はいい印象を持っていなかった。当時の櫻井は商品企画室において車両開発を統括する部長で、富田より20歳近くも年上だった。

会食は気まずい雰囲気で進んだ。ふたりの意見はことごとく真っ向から対立する。食事が終わると二人は互いを認め合うことなく早々に席を立とうとした。

こちらはスカイラインのインテリアカット。富田はブログ内で、すでにほぼ完成したスカイライン2ドアクーペに対し、メーターパネルやシートなど、内装などにもアイディアを提供したと綴っている。

富田が櫻井に別れの挨拶がてら病み上がりだった櫻井の体調を気遣ったときだった。櫻井がそのときの病で「三途の川」を渡りかけたという話を返すと、富田もまた過去に「三途の川」を見た話で応えた。生死をさまようという非常な経験がふたりを急速に近づける。会が終わっても二人は話し続けた。櫻井が富田をホテルまでクルマで送ったのだが、すっかり打ち解けた二人はなんと朝までそのクルマのなかで話し込んだのだった。

櫻井はプリンス出身で、日産生え抜きの難波とは同い年だった。「富田さん、難波さんは頑固一徹で軍人のような人だ。いちどボクが掛け合ってみよう」とまで言ってくれた。

結局、櫻井の助太刀も空しく難波は最後まで首を縦に振ることはなかった。富田のプロジェクトは闇に葬られてしまったが、人の縁というものの素晴らしさに感動した若い富田は決意を新たにする。

マイナスをプラスに変えろ!

やはり自前のブランドを育てるほかない。トミーカイラの認知を広め、自分の好きなようにチューニングカービジネスを展開していきたい。言ってみれば原点に立ち戻った富田は“ハルトゲ・スカイライン”企画をそのまま“トミーカイラ・スカイライン”計画へと変更した。88年に日本初の市販公認チューニングカーとして発表された「トミーカイラM30」である。

富田の動きは早かった。ハルトゲが不可能ならトミーカイラブランドで計画を引き継ぎたいと日産の上層部に申し出る。ベース車両はもちろん輸出用エンジンブロックなど純正パーツの供給などを要請すると、ハルトゲプロジェクトの負い目もあったのだろう、上層部は快く引き受けた。日産としてもモデル末期の迫る7代目スカイラインが話題になればという思いがあった(M30発表の1年後にR32スカイラインがデビューする)。マイナスをプラスに変える富田お得意の戦略が功を奏したのだった。

富田は“ハルトゲ・スカイライン”計画を上回る性能を狙うことに決めた。解良喜久雄をはじめとするトミタ夢工場の技術力を信じていたし、千載一遇のチャンスをブランド飛躍の好機と捉えていたからだ。けれどもそこには越えるべき巨大な壁がもうひとつあった。その壁を越えなければ、日産の協力はありえない。

その壁とは運輸省(当時)である。自動車の改造が御法度だった時代に、自動車メーカーが造ったクルマを改造して売ることを“お上”が認めるなど誰も想像できない時代でもあった。

(次回予告)
ハルトゲ・スカイライン計画が水の泡となったことで、富田は逆にまたとないチャンスを得た。日本初の市販公認チューニングカーを造るというチャンスだった。それはまたオリジナルブランドであるトミーカイラを確立できる機会でもあった。紆余曲折を経て発表にこぎつけた事実上ブランド初の市販公認チューニングカー“トミーカイラM30”とはいったいどんなクルマだったのだろうか。

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2019年11月25日 (月)

車お宝話(519)自動車メーカーになった男 12話











Yoshikazu Tomita (No.12)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第12回



前回までのあらすじ──80年代に入ってトミタオートはチューニングカービジネスに乗り出し、ドイツの名門ブランドを扱った。しかし富田の野望はいつか日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ること。オリジナルブランド、トミーカイラ発足をついに決意する。時を同じくして富田の元へと突如、日産自動車のシークレット部隊が現れた。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなことから始まったのだ。


Yoshikazu Tomita (No.12)






祇園の料亭に集った男たち

東京からとんぼ返りをし、慌てて向かった祇園の有名料亭“和久でん”。そこで待ちかまえていたのは、ひとりを除いて見知らぬスーツ姿の男性たちだった。けれども富田はそこによく知るひとりの男を発見する。親友であり、兄貴分であり、父のように慕う清水輝久だった。

清水は富田が20歳のころに半年ほど務めた日産サニー京都の社長である。富田が会社をやめたのち、十数年間、ふたりの間の縁は切れていたのだが、清水がボランティアで運営する異業種交流サロン「ヒューマンハーバー」で再会をはたすと、立場を超えてたちまち意気投合した。清水は、ときには父親を知らない富田の親代わりになったし、ときには何でも相談できる頼もしい兄貴分でもあった。富田にとっては最高の親友であり、人生の師匠というべき存在である。

原付の50ccエンジンを使って童夢と開発した「コメット」。バックもできる一人乗りのモビリティで、当初は原付免許で運転できるのが売りだった。



オーナー社長の清水は、日産本社の社長や役員とは麻雀仲間だったといい、いつでもダイレクトに話ができるような人物でもあった。清水は当時の社長(石原俊)に、「京都にいる富田とレーサーの松本(恵二氏・故人)、童夢の林の3人を(日産陣営へ)早めに囲っておいたほうがいい」と、富田たちには内緒で伝えていた。その結果がこの日の会合というわけだった。



この日、極秘裏に祇園で集まった関係者たちは、当時の日産社内で絶大な力をもっていた宣伝部長を筆頭に代理店(博報堂)の担当部長など、総勢10名あまり。“日産の富田”が動き出した瞬間だった。





のちにスズキも同様の乗り物を出したが、法改正で普通免許でないと乗れなくなってしまい、利点を活かせなくなってしまった。


モノ造りの原点

結局、富田と松本は日産と契約する。松本はその後、日産でル・マンを戦った。40歳になった富田はというと、京都のガイシャ屋からいきなり日本の大企業との付き合いがはじまって、まるで未知の世界に飛び込んだかのような日々を送り始めた。



もっとも、富田自身にモノ造りの経験がなかったわけじゃない。否、むしろ、持ち前のアイデアと実行力があったからこそ、日産という大企業にも認められる存在になったと言っていい。



30歳のころには後にポケバイへと発展し大ブームを巻き起こすマイクロバイク“チッパー”を制作販売しスマッシュヒットを放っていたし、童夢と共同で開発した原付バイク用50ccエンジンを積んだマイクロカー“コメット”は確実に時代の先を走っていた。コメットなどはあまりの経済性の高さに大手メーカーが目をつけた。途端、普通免許でしか運転できなくするという“お上”からのお達しが出てしまう。報道番組のニュースステーションが特番でとりあげるなど味方もあったが、お上の決定が覆ることはなかった。



富田は、この国での新しい挑戦には常にとてつもない困難が伴うということを、すでに身を以て経験していたのだった。



オリジナルのターボシステム

80年代当時、自動車販売をメインとする会社が独自で用品を販売したり開発したりすることはまだ珍しかった。富田が用品の開発に乗り出したのは、アメリカのBAE社製ターボシステムを輸入したことがきっかけだった。



その頃、ターボは高性能の証として日本でもブームになりつつあったが、BAE社製のシステムはいわゆる“ドッカンターボ”でパワーは出るがとても扱いづらいシロモノだった。なんとかもっと運転しやすく、取り付けも容易で、価格を抑えたターボシステムができないものだろうか。無いなら自分たちで造ればいい。持ち前のチャレンジ精神が富田を動かした。




もともとバイクが好きであった富田が初期に作った作品の「チッパー」。ポケバイの先駆け的製品であり、当時富田はまだ幼い息子をモデルにカタログを製作した。なお、エンジンには芝刈り機のエンジンを使っている。




こうして生まれたのがオリジナルシステムの“ターボ疾風”だ。このとき富田は、F2のトップレーサーで“メイジュ”というカーショップを京都北山で開いていた松本とターボ疾風を開発した林みのるの童夢とともに、MTD(メイジュ+富田+童夢)という用品開発および販売の別会社も設立している。社名の命名法に、富田のAMGに対する憧れと尊敬が透けてみえるようで面白い。




童夢に依頼して制作したtomita auto製の「ターボ疾風」。タイムラグの少ないターボシステムをコンセプトに開発し、価格の低さや取り付けやすさも売りだった。




ちなみに、富田はこのとき最初で最後のレースチーム監督を務めている。トミタオートがフルスポンサーとなってMTDカラ ーのF3マシンを走らせることになったからだ。ドライバーはハヤシレーシング(林みのるの従兄・将一の経営)の社員だった新人の小河等。「F3に乗れるなら何でもやる。食っていけなくても水だけ飲んで頑張る」。自分と同じメカ上がりで生真面目な小河のハングリーさに富田はほだされた。小河はその後、日本のトップレーサーとして活躍することになる。

 

トミーカイラ誕生前夜

ハルトゲジャパンが設立される少し前に、以前から知り合いだったコジマF1のエンジニア、解良喜久雄がトミタオートに入社している。解良の才能を見込んだ富田は早くからオリジナルブランド“トミーカイラ”の名前を思いついていたが、それをいきなり発表することはなかった。





富田の戦略は巧妙だった。AMGからチューニングカービジネスのノウハウを学び、ハルトゲで実際の開発と販売を経験して、トミタオートの名を日本のクルマ好きに広く知らしめてから、オリジナルブランドの展開を計ろうとしたのだ。

世界に通用する高品質な高性能車が国産メーカーになかったゆえ、ヨーロッパの高性能車信奉がとても強かった時代で、そのうえチューニングに対する理解もまるでなかった。富田は、高性能車の代表格であったM・ベンツとBMWのチューニングモデルを積極的に扱うことで、ベースとすべき高性能国産車の出現を待ちながら、チューニングカーというカテゴリーをまずは日本に浸透させる作戦に出たというわけである。






ターボ疾風を搭載したメルセデス・ベンツの280SE。当時はターボカスタムは邪道という風潮で、普及に苦労したという。


おりもおり、冒頭にも書いたように日産との協業が降って湧く。ハルトゲブランドを日産車にも活用しようという富田の戦略は思ってもみない方向へと進み、結果的に“トミーカイラ”というブランドを世に送りだすキッカケとなった。




当時のカタログ表紙にも掲載しており、スーパーカーを押しのけてこの280SEとターボをプッシュしていた。




(次回予告)

トミーカイラブランドの誕生と日産とのプロジェクトは、切っても切れない関係にある。そこで富田は異次元の世界を垣間みた。中古外車屋の社長が大企業の商品開発に関わるという前代未聞の事態はさまざまな化学反応をおこし、結果的にトミーカイラが飛躍するキッカケとなる。次回は日産とのプロジェクトで、富田にとってもキーポイントとなったスカイラインの開発秘話に迫る。

文・西川 淳 編集・iconic

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2019年10月28日 (月)

車お宝話(518)自動車メーカーになった男 11話

Yoshikazu Tomita (No.11)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第11回

前回までのあらすじ──当時はまだ珍しかったチューニングカービジネスに乗り出したトミタオート。AMGの総代理店となった富田が次に目をつけたのはBMWをベースに使うハルトゲだった。そして、富田が暖めていた野望は、日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ることである。“改造車”=暴走族御用達というイメージだった時代に、それは無謀な挑戦にもみえた……。

当時六本木のカローラと呼ばれ、若者に絶大な人気を誇っていたBMW。そんなBMWのチューニングカーが、ホットスポットであるマハラジャで展示されていたのだから、いやでも注目を集めた。

AMGからハルトゲへ

AMGと契約して2、3年が経ったころ、東京のとある会社が「AMGの商標登録をしたから使うな」、と突然言ってきた。商標登録することなど、富田の意識になかったのだ。そこで富田はAMGを諦め、違うブランドを探し始める。そうして見つけたのがBMWベースのチューニングカーを作っていたハルトゲだった。

こんどはぬかりがなかった。商標登録はもちろん、株式会社ハルトゲジャパンを設立し、輸入代理店として本格的な活動体制を整えたのだ。この頃、後にオリジナルカー開発において重要な役割を果たすエンジニアの解良喜久雄がトミタオートに合流している。国産F1マシン「KE007」のメカニックを担当した人物だった。

AMGとのビジネスはまだ実験的なものだった。パーツのみを輸入してユーザー向けに組み付けることが主だったのだ。ハルトゲではそれをもう一歩、発展させたいと富田は考えた。アルピーヌA108を見て「これなら造れる!」と思った頃の怖いもの知らずの気概が、当時の富田にはまだあった。

AMGに続きハルトゲでもブランディングにこだわったのは、富田がブランドこそが最大の資産だと感じていたから。富田は今もこの学びを講演などでの大きな柱にしているという。

ハルトゲジャパンとマハラジャ

誰も知らない、もちろん富田さえも知らなかったハルトゲブランド。日本中のクルマ好きに認知してもらうべく富田が取った戦略もまた、当時の輸入車販売業界では異例のことだった。

1984年のこと、社会現象となっていたディスコ“マハラジャ”でハルトゲブランドの発表会を行ったのだ。ハルトゲというブランドを披露しただけじゃない。BMW635CSiをベースとしたグループAマシンで日本のツーリングカー選手権に参戦することも発表した。その日、マハラジャは“ハルトゲの日”となり、多数の有名人が駆けつけ、またテレビや新聞など多くのメディアに取り上げられて、ハルトゲは瞬時にして日本中のクルマ好きに知れ渡ったのだった。

その後もハルトゲはマハラジャに展示された。マハラジャが全国展開すると、ハルトゲも帯同し、知名度は益々上がっていく。BMWベースのチューニングカーであるという認知も広がった。マハラジャとハルトゲのコラボレーションステッカーが人気を呼ぶなど、ハルトゲの“眠らない”マハラジャ・ショールームもまたひとつの社会現象となっていた。

全日本ツーリングカー選手権を制す

クルマ好きの間でハルトゲという名前がいっきに浸透した理由は、なにもマハラジャで飾っていたからだけではなかった。そのパフォーマンスもまた、クルマ好きを魅了したのだ。

1985年に始まった全日本ツーリングカー選手権グループAにおいて、ハルトゲBMW635CSiが見事に年間チャンピオンに輝いたのだった。けれどもこの実績が後に自分を苦しめることになろうとは、夢にも思わなかった。

マハラジャのスタッフが着用していた赤いコスチューム。イベントの際も大々的にコラボしてマハラジャ×ハルトゲの世界観を打ち出した。

マハラジャとコラボレーションすることで、チューニングカーの世界をそれまでになくオシャレで華やかなものとして演出してみせた富田だったが、その一方で、パフォーマンスにはこだわり続けていた。

ディスコとサーキット。硬軟織り交ぜた富田の戦略は、後のラクシャリーとパフォーマンス、ソフトとハードを融合したマーケティングの先鞭をつけるものだったのだ。

やっぱり自分で造りたい

しょせん、人が造ったブランド。AMGとハルトゲを日本に紹介した富田だったが、常にそんな思いがくすぶっていた。もちろん、いつかは日本車をベースにやってみたいという思いもあったのだが、輸入車販売が本業という立ち位置は変わっておらず、FAIA(外国自動車輸入協同組合、主に並行輸入業者の集まり)の企画委員長を務めるなど、多忙を極めていた。

ある日、FAIAの会議で東京へ出張していた富田に京都のオフィスから連絡が入った。東京から日産自動車の人間が数名突然やってきて「社長に会いたい」と言っているらしい。帰りは明日だと伝えたが、それなら「明日まで待っている」、という。

サイドにあしらわれたストライプは、のちのトミーカイラブランドにも通じるデザイン。国産チューニングカーへとファンを自然と流入させるためにこのような戦略をとった。

いったい大メーカーの日産が自分に何の用があるのだろう?全く心当たりもないまま、富田は用事を切り上げて京都へトンボ帰りすることに。急いで戻ってみれば、オフィスに伝言があった。円山公園に近い有名料亭で待っているという。

料亭の部屋に入ってみれば、そこには10名近くの関係者が待っていた。その中に富田が最も世話になった人物の顔を見つけて、富田はただ事ではないと知る。

次回予告

富田の元へと突如現れた日産自動車のシークレット部隊。富田の親友であり、兄貴分であり、師匠でもあった人間が日産のトップと話をつけて始まった物語だった。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなところから始まろうとしていた。日産という大企業の懐に飛び込んだ富田。すべてが順調に進んでいたかに見えたが、そこに立ちふさがったのは“日本の大企業”そのものだった。

文・西川 淳 編集・iconic

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2019年10月10日 (木)

車お宝話(517)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る 3

秋晴れの気持ちいい空気の中を、「ZZ」と僕は快調に走っている。

久々のマニュアル車、5速ミッションを回転を合わせながら走る楽しさは格別!

天気もいいし、車は好調だし、昨日までのモヤモヤは吹っ飛んでしまった。

柄にもない、僕の一番嫌いな言葉「撮り越し苦労」が杞憂に終わったということ!

そんなことを考えながら、立派なアーケードの中をパレードしながら、

ひとりほくそんでいたら、しばし展示を兼ねた休憩ということに・・・

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朝の8時半にスタートしてから、すでに3時間ほど経て、昼前になっている。

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白石君にぼちぼちドライバー交代をと告げると、待ってました、といい返事!

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流石は白石君、手慣れた動作で「ZZ」を走らす。

彼も普段は赤い「ZZ-EV」のオーナーで、「ZZ」の事はことさら好きなのだとか!

彼の素顔はレーシングドライバーの他に、レーシングシュミレーターの設計、製作

まで、自分でするという稀な才能を持つ。

午後からは助手席で白石君のナビ、と言っても、一度もナビをした経験がない!

当の彼も、そんなことは先刻承知とばかりに、僕などあてにせず、ひとりでこなす。

曲がりくねった山道を、ほんとうに楽しそうに「いいですね~ ZZ」って言いながら、

すっ飛んで行く・・・

そんな彼を横目に、早く僕も運転したいな~って!

もうこうなったら、若い頃に戻った気持ちで、「ZZ」を目一杯楽しむぞ~・・・!

どこに行っても、どこを走っても、沿道の人が温かい笑顔で手を振ってくれてる。

もちろんチェックポイントには大勢の人が待ってくれているし、まいど、毎度、

お土産や、飲み物を用意してくれているのには、頭が下がる・・・

PC競技場では朝に聞いていた鳥取の「ZZ」オーナーさんが待ってくれていて、

早速ボンネットの中と色紙にサイン、シルバーの綺麗な車で20年ほど大事に

されているとのこと!

今回はトミーカイラが初登場ということで、結構あちこちで歓迎を受けたけど!

別の休憩のとき、大学教授風の方がやってきて、富田さんですかと!

今日はこの「ZZ」だけがお目当てで来ました、と言われた時はうれしかったな~・・・

岡山県挙げてのイベントだから、エントリーリストや、パンフレットが隅々まで

行き渡っている。

もちろん地元テレビでも案内がされているので、どこを何時ぐらいに走ってくるかも

みなさんよく御存じなのだ!

そんな楽しい1日目を堪能して、宿泊先の温泉へ!

2日目

昨日と違って肌寒い朝、なぜか昨今話題の、ラグビー場からの出発。

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前日と違って鳥取大山の麓を走るコースが多い!

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当然雨の心配も、と思っていたら、雨が降ってきた・・・

道路脇に止めてトップを装着、気温が16度で雨の山麓と来ては寒くてしょうがない!

ヒーターSWを入れて、これでよし、ワイパーも奇麗に掃くし問題なし!

オーナーズクラブにもらったトミーカイラのブルゾンを着て完了。

トップさえ付いていれば、多少の雨はなんとかなる・・・

そんな調子で相変わらず楽しく、走っていたら、雨が止んだ・・・

雨のお蔭で貴重な体験もできた、トップを付けたことも、ヒーターを

入れたことも、雨の走りも、初めてだったんだから!

PC競技を幾つかこなして、全ての競技を終え、あとは帰るだけ。

ゴールの岡山国際ホテルまでは、ナビで行こうということに!

すると偶然にも目の前に、最新のポルシェGTSが!

細い山道を、白石君んは何食わぬ顔でGTSを追い詰める・・・

まぁ、親バカの依怙贔屓きもあるだろうけど、

やっぱり「ZZ」は素晴らしい!

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2019年10月 9日 (水)

車お宝話(516)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る 2

さぁ~、いよいよ出発の順番が回って来た!

この順番は年式の古い順にゼッケンナンバーが振り分けられるので、

ゼッケンナンバー順にスタートする。

概ね戦前の車が先頭集団を占めるので、100台近く出走するなかで、

僕の車は「66」番となったのだろう。

先発ドライバーを僕が務め、女性アナウンサーの車紹介のなかを、

大勢の、見送る人たちの拍手をうけ、ゆるゆるとスタートゲートをくぐる。

「そこを左へ」・・・助手席では初出場の白石君が早速コマ図を読んでいる!

僕は感慨深く「ZZ」のステアリングを握りしめ、これから2日間の期待と不安に

浸っている。

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めったにないほどの快晴の中、オープンのZZは快調そのもので、

新車時に乗った感覚とほぼ変わりない!

1時間ほど走ってふと気が付けば、不安などすっかり忘れ、小気味よいシフトを

繰り返し、エクゾーストノートを楽しんでいるではないか・・・

だんだんと心の奥に潜んでいた、得体のしれない何かが表面化してきた!

「これだ」、最近までモヤモヤしていた気持ちが一瞬にして吹き飛ぶ・・・

探し求めていた何かが、いや車が見つかったのだ!

「やはり自分の人生を掛けて造った車が、稀薄になっていた心を救ってくれた」

このサイズ感で求めていたものが、軽いし、走るし、レーシー、

なにより、シフト感と、ブレーキが最高、だから楽しいし、乗っていてうれしい!

以前にも書いたが、僕は「アルピーヌA108」に乗って頭をガツンとやられ、

こんなクルマを造りたいと真剣に思って、45歳の時に開発に取り組んだ・・・

そして49歳の時に1号車が完成したのだが、造る大変さ、お金の苦労等、など、

正直その時は疲れ果てていて、本当の、この車の良さを理解できていなかった

ように思う!

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あれから25年以上の時が過ぎ、純粋にこの「ZZ]の全てを知ろうと思った時、

信じられないような「感動」と、「興奮」が僕の心に戻ってきた・・・

それを素直に表現した言葉が、乗って「楽しい」「うれしい」「幸せ」となったのだろう!

1年ほど前、大好きな「アルピーヌA110」が復活したというので、1号車を買う積りで

フランスに出かけたが、一目見て、大きくなったボディにガッカリしたのを思い出す。

よかった、ほんとうに良かった、追い求めているものが見つかったのだから・・・!

つづく!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年10月 7日 (月)

車お宝話(515)ZZで秋のベッキオバンビーノを走る!

久方ぶりにブログネタができたので書きます。

先日、5日、6日の土曜と日曜日に、岡山で開催されたクラシックカーラリー

ベッキオバンビーノに思い切って「トミーカイラ ZZ」で参加。

なぜ ”思い切って” と表現したかと云うと、この車の初年度登録が、

「平成9年」で、西暦でいうと「1997年」となるこの車は22年前のモデル、

なのでクラシックと呼べるかどうか疑問だったのだが、主催者側から

20年を経てれば十分ですよ、と後押ししてもらったので、”思い切って”

参加を決めたという次第!

いままで、ほぼ毎年春と秋に開催されているベッキオには5年程まえから

参加しているイベントで、それまでは、「メルセデス3.5ガブリオレ」

「ジャガーEタイプクーペ」  「パンサーJ72」  「トライアンフTR3」

「ムスタングコンバーチブル」など、交互に使用して参加していた。

景色も良く、何よりも応援してくださる県民の方々の心あたたまるもてなしに、

普段からの非日常的なこのイベントに、すっかり嵌ってしまった!

ところが、回を重ねる度に、なぜか心の底から楽しめなくなる自分もいた。

それは、僕の好きな「ポルシェ356」や「スピードスター」、「アルピーヌA110」

「アバルト」など、小さくて、かわいくて、それでいて結構楽しめる車達・・・

そんな車につい目移りしてしまい、なんとなく、そんな車達を探し始めていた。

それでも頭の中で、ああでもない、こうでもないと、スッキリしないまま時が過ぎ!

もちろん高騰している値段のこともあるが、自分が求めている何かが足りない・・・

そしてあれこれ考えているうちに、やっぱり自分の理想を追い求めた車は「ZZ」

だったことに行き着く!

それだったら、もう 初期の「ZZ」からは25年以上も経っている「ZZ」での出走は?

と考ええるに至って、最初に書いたような次第になったのだ!

とはいえ、なにせ本格的に2日間で500キロほど走るのだ・・・

自分の記憶の中にある「ZZ」は色褪せてはいないだろうか?

本当に期待に応えてくれるのだろうか・・・

そんな期待と不安が入り混じったなかで、「トミーカイラZZ・EV」開発ドライバーの

白石勇樹君と参加することに・・・

いよいよ当日、早朝の新幹線で岡山に到着、いつものスタート地点の

岡山護国神社に・・・

ゼッケン66をつけた、真っ赤な新車のような「ZZ」が待っていてくれた!

一足先に、いつもの上田君が慎重に運んでくれて、用意万端済ませて

くれている!

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赤い「ZZ」は全てカタログ仕様のフルノーマル車で、なんとタイヤも新車時のもの!

もちろん、車両やタイヤの点検は、京都工場の谷口君が時間を掛けて十分に

手入れしてくれている・・・

すると待ちかねたように、同じくこのイベントに参加されている方が、

友人で鳥取の「ZZ」オーナが午後のPC競技場で待っているのでよろしく

お願いしますと、丁寧にあいさつに・・・

聞けば「ZZ」のゼッケン張りやら、その他色々と上田君がお世話になったらしい!

まずは気持ちの良いスタートが切れそうな予感。

続く!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年9月17日 (火)

車お宝話(514)自動車メーカーになった男 10話







 

 

 

 

 


 

 










Yoshikazu Tomita (No.10)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第10回



前回までのあらすじ──自然とモータースポーツとの縁を深めた富田だったが、自動車販売という本流は頑に守り続けていた。そんななか、身近な仲間がレーシングカーを製作し世界へ挑戦する姿を見て若きころのエンジニア魂に火がつき始める。ツルシの製品を売るだけでは飽き足らなくなってきたのだ。富田が次に目をつけたのは、AMG やハルトゲといった西ドイツチューニングカーの世界。1980年代始めのことで、それらはまだ無名の存在だった


AMGとの出会い

あるとき富田は有名モーター誌を読んでいて、ひとつの記事に惹きつけられた。それは欧州のツーリングカーレースをメルセデスベンツのサルーンをベースにしたレースカーで参戦する、西ドイツのとあるチューナーに関する記事だった。チューナーの名前はAMG。今ではダイムラー・メルセデスの傘下だが、当時はまだ独立したチューナーであり、日本ではほとんど知られていなかった。

メルセデスベンツも大好きで、富田は当時、350SLを自分なりに改造して楽しんでいた。けれども、ベンツを改造して乗るということ自体がまるで理解されず、知り合いの自動車評論家(後に超有名となる人たち)からは、「メルセデスはノーマルで乗るものだ!」、とけなされてもいた。

そんなときにAMGの記事に出会ったのだ。そこにはAMGがベンツのチューナーとして西ドイツでは有名な存在で、あまつさえツーリングカーレースに出場し大活躍しているとあり、書き手は旧知の仲である成江淳だった。富田はすぐさま成江に電話し、AMGの話をさらに詳しく聞いている。


聞けば聞くほどに「チューニングはこれからアリだ」、と自信を深めた富田は早速、次のアクションをおこす。AMGの創設者であるハンス・ヴェルナー・アウトレヒトに会うために西ドイツ行きを決心したのだった。




写真右手前から富田、金古、ペリーニ。写真左がアウトレヒト。地味ではあったが、頑固な工場の親父のようで、職人気質な雰囲気を感じたという。




いざ、西ドイツへ!

富田は、友人で童夢USAの社長でもあった金古(真彦氏)に連絡を取り、AMGとのコンタクトを依頼。金古は欧州で著名なイタリア人ジャーナリストのジャンカルロ・ペッリーニに連絡し取り次ぎを頼んでいる。

富田はちょうど2カ月後に童夢を応援するためにフランスはル・マンに行くことになっていた。その帰りに西ドイツのAMGを訪問できるよう、ペッリーニがアポイントを取り次ぐ。




当時の富田は36歳。商談後には新車の280SEをレンタルして、川下りなどをして西ドイツを楽しんだという




金古と連れ立ってフランクフルト空港に降りてみれば、ひげ面で陽気なペッリーニが見慣れぬアウディと共に待ってくれていた。それは先日(2019年8月27日)亡くなったフェルディナント・カール・ピエヒによって開発され衝撃のデビューを飾ったばかりのアウディ・クワトロで、ペッリーニはロードインプレッションを取っていたのだ。そのリアシートに収まった富田は、ペッリーニがまるでラリードライバーのようにドイツの道をかっ飛ばしたことを覚えている。81年のことだった。

AMGの本拠地はすでにアファルターバッハへと移っていた。けれども、田舎町であることに変わりはなく、AMGの工場もまた簡素にして質素なものだった。後に富田は、「もしあの時のAMGが立派な会社と工場でボクたちを迎えていたとしたら、チューニングカービジネスを日本で興そうという気にはならなかったかも知れない」、と本音を漏らしている。



アルピーヌを初めて見て、「これならできる!」と若い富田が不遜にも思ったように、この時もまた、AMGの質素で実直な佇まいをみて、自分でもできる!と思えたというわけだった。



アウトレヒトと直談判

AMGとは、創業者であるアウトレヒトのAとメルヒャーのM、そしてアウトレヒトの故郷であるグロースアスパハのG、という三つの頭文字を併せて造られたものだ。1981年のこのとき、メルヒャーは経営から退いており、アウトレヒトが陣頭指揮を取っていた。



富田がやってきたアファルターバッハは事業拡大に伴って創業の地ブルクシュテッテンから移転した場所であり、メルセデス傘下となったのちも引き続きこの地にメルセデスAMGの本社と工場は存在している。



富田がやってきた当時のAMGは、決して小さくはないけれどもプレハブ倉庫のような工場が並んでいるだけで、町工場の域を出るものではなかった。前述したように、富田が自信を持つくらい、それは質素で簡素なものだった。それでも西ドイツとアラブの客がAMGを求めてアファルターバッハまでやってくるのだという。富田は閃いた。いずれ日本人もやってくるだろう、と。



アウトレヒトはいかにも頑固そうな町工場のオヤジ然とした職人で、富田たちを快く迎えてくれたという。工場をひとしきり案内された富田は、すぐさまAMGの日本代理店契約を獲得すべくアウトレヒトとの契約交渉に挑んだ。




広告掲載後、取材は殺到したがサンプルカーは1台のみ。過密スケジュールを何とかやりくりして切り抜けた。富田は当時を振り返って、それまでで一番神経を使った経験だとしている


AMG日本総代理店に

交渉は、富田が日本語で話し、それを金古が英語に換えて、イタリア人のペッリーニがドイツ語に訳すという、のんびりとしたものだった。交渉はトントン拍子に進んで、正式な契約を後日、富田がスーパーバイザーを努める高島屋を通じて行なうことで結論をみた。このとき富田はデモカーとして2台のコンプリートカー(SECとSL)と数台分のパーツをサンプル購入し、日本へと輸出している。



日本にデモカーが届くと、富田は早速、専門誌にプレスリリースを送り、雑誌広告にはAMGロゴ入りの宣伝を掲載した。




サンプルカー1台で取材を切り抜けた経験は、のちのトミーカイラM30の発表の際にも役立った


知名度ゼロ。メルセデスベンツを改造するバカがどこにいる?と思われていた時代であった。ところが、富田の予想に反して、専門誌からすぐに取材依頼が殺到した。富田曰く、「ただカッコウいいだけのスーパーカーにみんな飽きてたんと違うかなぁ。もっと現実的で実用性もあって、ちゃんと性能の出る高級車を望んでいたんだと思う」。



そう、誰もが“スーパーカーの次”を探していたのだ。富田の挑戦は吉と出た。同時に富田には別の野望も芽生えている。日本車をベースとした本格的なチューニングカービジネスだ。車検を通るコンプリートカーというアイデアはまだまだ珍しかった。



しかし、日本車がドイツ車のようになるにはまだ早い。それまでドイツのチューニングカービジネスを学ぼうと、富田はBMWを使ったブランド、ハルトゲに食指を伸ばす。





次回予告

トミタオートはついにチューニングカービジネスに乗り出した。AMGやハルトゲ(次回紹介)といった今となっては超有名なブランドを日本に導いた富田の次なる野望は、日本車をベースとしたオリジナルコンプリートカーを造ることだった。“改造車”=暴走族御用達というイメージだった時代に、それは一見、無謀な挑戦にも見えたのだが……。





文・西川 淳 編集・iconic

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2019年8月26日 (月)

車お宝話(513)自動車メーカーになった男 9話

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Yoshikazu Tomita (No.9)

自動車メーカーになった男──想像力が全ての夢を叶えてくれる。第9回



前回までのあらすじ──富田義一がクルマやバイクに目覚めたのは小学生のころの転校がキッカケだった。そこで富田は日本のレース業界でその後、大いに名を馳せることになる、とある人物と出会う。成長するにつれさらに広がってゆく京都のクルマ好き人脈。トミタオートのビジネスが軌道に乗り始めると、その人脈は日本のレース界にまで広がった。









その時々を一生懸命にやることがモットーだという富田。モトクロスに熱中していた当時の思い出も強く残っていたのだろう、20年後には息子にも体験させている。


あのコジマさんとモトクロス

転校した学校の小学生に小嶋松久がいた。後にコジマエンジニアリング(KE)を立ち上げ、F1に挑戦する、あの小嶋さんだ。

意気投合した富田は、小嶋の父からもたいへん可愛がられ、小嶋家に出入りするようになった。そこにはクルマやバイクがあって、富田は急激に興味をもちはじめる。あの頃は誰もがそうだったけれど、まずはバイクに乗りたくてしようがない。



公立高校に受かれば単車を買ってあげる。育ての叔母がそう約束してくれた。富田少年は急に勉強を頑張りはじめると、仲間内でただひとり公立高校に受かった。


叔母の内職を手伝う条件で、富田は山口オートペットという2気筒の50cc原付バイクを買ってもらう。当時、みんなはホンダのカブを買ったものだが、人気で2カ月待ち。1カ月すら待ちきれない富田は多少性能が劣るけれどもすぐ乗れるオートペットを選んだのだった。それまで園芸好きのか弱い少年だった富田にとって、勉強を頑張って一番欲しいモノを手に入れるという経験は、その後の人生を決めた最初の転機であったことは確かだ。





免許を取ってすぐ、小嶋の勧めでJAFのモータースポーツライセンスを取得し、モトクロスレースにハマっていく。オートバイだけじゃない。ラグビーや玉突き(ビリヤード)、喧嘩まで、日々明け暮れた男らしいモノやコトはすべて小嶋から教わった。

18歳のとき、富田は2台目の単車トーハツ・ランペットでモトクロスレースに初出場することになった。そのときすでに小嶋は全国的に有名なライダーになっていた。






オートペットを買ってもらい納車された日は、一睡もせずに眺めていたという。また、当時マン島TTレースなどに強く影響を受けていた富田は、レーサー風に改造することを決めた。


世界はきっと広いに違いない……

レーシングドライバーになりたい。少年時代にはそう願ったこともあった。当時レーサーになるにはまずライダーとして二輪で成功し、四輪へとステップアップするのが王道だった。

小嶋のアドバイスもあって富田もそれなりに活躍できた。けれども小嶋にはまるで適わなかった。初めてのレースでも富田は、予選第1ヒートの1周目こそ小嶋の教え通りに走ってワークスライダーたちを抑えアタマを取ったが、それが精一杯だった。2周目にはコースアウトしてしまい、予選不通過。一方の小嶋といえばマフラーまわりを小改造しただけの富田のバイクを駆って、予選第2ヒートをトップで駆けぬけている。



富田は早くも悟った。こんなに身近にこんなにも速いヤツがいる。世界はまだまだ広い。レース界にはとてつもなく速いヤツばかりがいるに違いない、と。

もっとも富田は自分に“実力がない”と言い聞かせたかっただけ、なのかも知れない。当時、レースの世界における二輪から四輪へのステップアップには、かなりの資金が必要だった。よっぽど目に止まる活躍をしてメーカーから声を掛けてもらわない限り、自力で戦闘力のあるクルマを買って出ていかなければならなかった。今でも四輪レースに参加するためにはそれなりの経済力が必要だが、当時のそれは今とは比べ物にならなかった。

金持ちしかできない。富田にはそんな余裕などまるでなかったのだった。





あのハヤシさんとル・マン

十代も終わりに近づいた頃。パブリカコンバーチブルで京都の街を夜な夜な駆けていた富田は、いつしか同じように京都でスポーツタイプのクルマを乗り回す若者と知り合った。後に童夢を立ち上げる林みのるだ。

富田が自動車販売ビジネスで成功を収めはじめたころ、レーシングカーコンストラクターの道を歩んでいた林はオリジナル開発のスーパーカー、童夢−零を引っ提げて一躍時の人となった。その名を世界に轟かせた童夢は、79年のル・マン24時間レース初挑戦を皮切りに、日本発レーシングカーコンストラクターとして有名になっていく。






904GTSを通じて多くの仲間との交流を深めた富田。レース後には彼らと旅に出かけるなど、車仲間以上に人として交流を深めていたことがうかがい知れる


富田はル・マン24時間レースを応援しにフランスまで行っている。仕事の都合でレーススタート直前にしか行けない富田が乗る便は、部品などを日本からル・マンへと運ぶ“最終便”でもあった。重たいデフを運んだこともあったという。後にアマダがメインスポンサーとなったとき、林に頼まれて日本から法被を運んだことがある。シャルルドゴールの入国でトラブったが、何とかル・マンに持ち込んだ。この法被が人気で、富田はアルピナのブルゾンと交換してご満悦だった。



レース中にはこんなこともあった。アルナージュを立ち上がったところにあったチームのタイミングピットに豪華な和食の弁当を運ぶ役を買ってでた。シトロエンで場外に飛び出した富田だったが、レース当日のル・マン周辺は大変な渋滞でにっちもさっちもいかない。

そうこうしているうちに白バイの警官と目が合った。やばい。国際免許証なんて持っていない。フランス語も話せない。瞬く間に警官たちと野次馬に囲まれてしまった。知らぬ存ぜぬで押し通そうとする富田。ひとりの警官が片言の日本語で話かけてきた。「日本の免許証はありますか?」

思わず日本の免許証を差し出す富田。万事休す、か。と、警官たちが笑いだした。なんと、子供がクルマを運転していると思われていたのだった。事情を知った白バイの先導で、弁当と富田とシトロエンは悠々、アルナージュへと向かった。



童顔の富田義一。三十代も半ばの話である。



あのタチさんとル・マン

ある時、富田は童夢USAの金古真彦(カーデザイナー)に会いにいこうと林に誘われ、ロサンゼルスへ行くことになった。その機中で林から紹介されたのがレーシングドライバーの舘信秀(後のトムス代表)だった。

当時すでに、日本のツーリングレースにおけるトップドライバーだった館は、セリカターボでアメリカのレースに出る準備のため、林と一緒に訪米したのだった。LAで意気投合した館と富田。舘が童夢セリカターボとして翌年のル・マンに挑戦すると知り、小さいながらもステッカー・スポンサーを買って出た。富田は日本での輸入車販売で日ごろ苦労しているナンバー取得への思いをこめて、市販車ならナンバーが装着される位置にトミタオートのステッカーを貼らせてもらったという(その場所は元々、ハヤシレーシング=林みのるの親戚が経営するアルミホイールメーカー、の場所だった)。その位置がガイシャ販売業者にとって最高のポジションだと思っていた。






ル・マンで仲良くなった生沢徹とは、その後も交流が続き、写真のポルシェ904GTSや、公認チューニングカーなどの話で意気投合した。


残念ながら舘と童夢セリカターボのル・マン初挑戦(80年)は予選不通過に終わっているが、その経験があればこそ、その後トムスと童夢はトヨタをグループCカーによる耐久レース(WEC)、そしてル・マンの舞台へと引っ張り出すことに成功する(ル・マンへの本格参戦は85年から)。

トヨタがル・マンで初勝利するのは、それから30年以上後のことだ。



富田はこの時期、ル・マンや国内レースに頻繁に出入りし、生沢徹や関谷正徳、鈴木亜久里といった名ドライバーたちと交遊を結んでいる。

次回予告

日本レース界の黄金期を垣間みた富田だったが、自身は自動車レース活動より自動車販売ビジネスから逸れることはなかった。否、むしろ身近な仲間たちがレーシングカーを製作し世界へ挑戦する姿を見て、元々あったエンジニア魂に火がつき始めていた。そう、誰かが造ったものを売る、だけでは飽き足らなくなってきたのだ。富田が次に目をつけたのはAMGやハルトゲといった独チューニングカーの世界だった。1980年代始めのことである。

文・西川 淳 編集・iconic

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